鹿友会誌(抄)
「第十八冊」
 
△故青山雅雄君
三、中学時代
 君は初め秋田農学校に入学した、実に君の前途を誤るの序幕は開かれぬ、卒業に至ら ずして郁文館中学に転学す、実は君の如き天才の人は、始めより不具的に教育して見た かった、然らば創作の一部位は残して死んだであらうと思ふ、小なくとも青山遺稿は出来 たであらうと思ふ、中学の四年までは勉強せんでも成績は優等であったが、五年に進級 してから女義太夫某に熱心して、彼我の交通頻繁となり、摂氏三十九度の熱度となり、 学問は頓に劣等になった、斯くて辛うじて卒業した、君の中学時代は竜頭蛇尾に終りぬ 。
 
四、鉱山生活時代
 一攫万金の実業家も、羨むべきものゝ一なり、金色燦爛の大礼服を着する文武の大官 も、男子の面目悪くなし、筆硯を呵して、思想を発表する事縦横、万斛の溜飲を下げて 暮すも亦可、選ぶべき道は何れぞ、十字街頭に立て左顧右盻すること久しくして、運命 のみは遂に君を駆って尾去沢鉱山員たらしむるに至ったのである、実に一中学の卒業を 以て社会に立たんとは君も予期せざる処なりき、
 事は易(易偏+鳥、イスカ)の嘴と齟齬しぬ、選べる職業は体質及び性質に合はぬ、 小学校を卒業せぬ連中の下風に立つの不幸もあり、濡れ鞋で朝は星を頂きて出で、夜は 月を踏んで帰る、日給三四十銭、快々たるなき能はず、酒に隠れ哲学に潜み文筆に頼る より外に君の慰安なかったのだ、当時君が肚裏の苦衷を知るものは恐らくは僕のみであ ったらう、大に飲み大に食ふ、遂に死病の俑を作ったのである、
 
 遂に鉱山を辞して静養の後、内田法学士の推挙と、作山電煉課長の斡旋に依りて日立 鉱山分析所に入った、鉱石を碎く、試験管を洗ふ、蓋し小僧輩の業なり、眼高手低の 嘆転々切なり、君の生活は斯くして暫く続けられた、例令忍耐勉強して、見習生は役員 になり、月給参拾円は五十円、一足飛びに百円となりて、係長は課長となり、友には羨 まれ、父母妻子は楽に暮さしめ得るとするも、天才的な君は我慢出来ぬ、病は再び来り 、遂に折角の課長の夢想は敗れて、薬餌に親む身とはなりぬ、
 二度迄も鉱山員となりて、一年に二円三円と昇給すれば、十年に二十円三十円、二三十 年には何百円となり、年末慰労金を加算すれば何十歳の時には幾万幾千円の貯金となり 、一生楽は出来ると、打算の算盤は誠によいが、閻魔庁に供托の自己の寿命は残り少な く出払ふて居るを知らぬ、
 
 君は此時の感想を後で僕に話した、曰く『私は家畜たらんとして二度失敗して、今日始め て私の使命を知りました』と、蓋し君の意は、鉱山員は家畜の様なものだと云ふので、 極く小なる職務上の自由と威張る権利とに満足して、大なる不自由と屈従と迎合とを忍 び与へらるゝ糧を以て暮らして居るは家畜に等しいと云ふにあった、而して君は結論と して『家畜に失敗するは男子の名誉だ、今後は唯使命に従ふべきのみ』と云ふて居た、
 君は此の療痾閑中、茨城新聞に、数々文章と俳句を当初した、遇々筆禍あり、鉱 山の忌諱に触れ、君が八寸の毛錐子、日立鉱山の大問題となる、作山氏其他の親戚の迷 惑甚だしく却々騒げたものだ、其実其筆者は他にあったのを冤罪を蒙ったらしい、君は 此問題につき作山氏に対する面目を、一生の内に雪ぎたいと云って居たが、遂に夭死した のは、幽魂尚ほ残念に思うてゐるであらう。

[次へ進んで下さい]