鹿友会誌(抄)
「第十八冊」
 
△道場の思ひ出
 (小田島治右衛門翁の事ども)   おと生
 未だ其頃は治右衛門様は矍鑠として居られた、小肥りの真四角な身体に、黒い胴を着 けて、毎日道場に立たれた、別段労るゝ風もなく、若い者の二人も三人も続けさまに稽 古をつけらるゝ事も稀しくなかった、竹刀を相手の首に引かけて一つヒネると、大概の ものはコロリと転んだ、私共少年を相手に、ホンの真似事ばかし打って来らるゝ竹刀 の先にも、力が籠ってナカナカ痛かつた。
 
 毎日稽古に通ふ人達も相応に多かった、我々の知って居る範囲では、小田島卯助さん 、大里恒藏さんなどが古い方で、井上良五郎、西村忠次郎、原一司、吉田豊、木村義平 などゝ云ふ人達が若手の方であった、警察の人達も毎日来た、中田尚久と云ふ警部が ナカナカの熱心者で、殊に風采が堂々として居た、柳某と云ふ巡査がヒドイ強情張りで、 何ぼ打たれても参ったと云ふ事を云はず、相手の吉田豊君が怒って仕舞って、お仕舞に は持前の怪力で、羽目板にイヤと云ふ程叩き付けた事なぞがあった。
 
 黒木綿の紋付に、袋に入れた竹刀を担いだ、武者修行と云った様な人達も、其の頃迄 は能く来た、斯くう云ふ人が来ると、常にも増して道場が賑はって、這入り口 や縁側の方が見物人で垣を作り、道場の周囲には稽古着を着た人達が、肩肱怒らしてヅ ラリと並んだ、治右衛門さんは畳の敷てある上段の所で、小さな炉を前に、背中を丸く してニコニコしながら、門下生と修行者の試合を見て居られた、其の傍には髯の厳めし い肋骨の官服を着た警部さんなぞが坐って居た。
 
 何時か大館の警察の人達が大挙して来たことがあった、其の中に一人の髯武者があっ てナカナカよく使った、大里恒藏君が其の相手をして、得意の「お突イー」と一本喰わ せる、道具はづれにしたゝか参って、其の髯武者が口を曲げて、痛さうな顔色をしたの が大変痛快に感ぜられた印象がまだ鮮かだ、こんな時は西村忠次郎君が一番の花形だっ た、長い長い竹刀を持って突きが大得意であった、それよりも立ち向ふから止めるまで 絶間ない奇抜な掛声が相手の肝を奪った、前後通じて君位賑かな面白い剣術は先づなか った。
 
 剣術を興行して歩く男女合せて十数人の一団が来た事があった、神明様の大庭に試合 の場を作り、当地の剣客連と左右に分れて勝負を戦はした、此方の総大将は陽之助さん であったと思ふ、浅利(?)某と云ふ老剣客が、向ふから出た婦人の長刀に足を払はれ 転んだなど大笑ひであった、一番仕舞に向ふの団長が一本の青竹を持出し、ナミナミと 水を湛へた二個のコップの縁に之を渡して、コップの水一滴も滾さず物の見事に其の竹 を中断して見せた、団長が初め長身白晢音吐朗々、詩を吟じながら竹刀を大上段に振り かぶった所が、馬鹿に勇ましく大喝采であったが、アトで物理の本なぞで見ると、コン ナことは撃剣の達人でなくとも誰れでも出来ることであった。
 
 陽之助さんは、東京の遊学時代には学校よりも剣術の方を熱心に学ばれた程で、無論 花輪では及ぶものなき立派な若先生であった、弟子達の稽古が済んだ後、時たま阿父さ んから稽古を受けらるゝ事があったが、夫れこそ電光石火虚々実々、飛燕柳を貫き、落 花風に翻るとでも形容し度い程に、二条の竹刀が目にも止らぬ早さで相交りもつれ合ふ 有様が、全くの見物であった。
 
 我々が稽古に行くと、陽之助さんは能く稽古着を小腋に抱へ込み、太いばら緒の大き な下駄を引かけてニコニコしながら俵屋の方からやって来られた、色の白い余り背の高 くないがっしりした体格で、始終ニコニコして戯談を云って此の上ないイヽ方であった 、稽古振りも飽迄親切で柔かで、阿父さん程に痛いこともなかった、七段目のお軽では ないが、治右衛門さんが死なれたのは、お年の上と諦めもされるが、間もなく信一郎君 の阿父さんが死なれ、四十に成るかなら無い陽之助さんまで引続き逝かるゝに至っては、 全く天道是か非かである。
 
 道場は、下が麹などを作る室になって居て、酒造の多忙しい時分なぞは、能く片隅に 麹の折板なぞがたくさん重ねられてあった、稽古のない時は、蔵詰の若い者が相撲を取 ったり、近所の腕白連が集まっていゝ遊び場所にして居た、往年の火災で表屋が焼けた 際は、皆さんが暫く茲に居られた、そして我が親愛なる仁郎君の葬式も茲から出された のであった、夫れから春風秋雨又幾年、竹刀の音も絶えて久しく、道場も二代の主を 失って、嘸々老い朽さったであらう、あゝ若人の汗の香の荒みたる懐かしき道場よ! (大正五、三、二〇)

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