鹿友会誌(抄)
「第十八冊」
 
△噫!!故豊口柳太郎君   中島莞伯
 君は豊口甚平氏の嗣子にして、明治十九年四月五日毛馬内に生る、幼にして英資、学 校に於ては常に上位を占む。同三十三年大館中学校に学び、同三十八年同校卒業後、滝 の川なる大蔵省所管醸造試験所に学ぶ、同年十二月業を卒へて帰郷し、其修めたる学理 を応用して、斯業の改良発展を計り、其銘酒「豊正宗」は、地方を圧するに至れり。又 小坂鉱山物品供給は、縦覧殆ど他地方商人に委せられ居るを慨し、同四十一年七月、同 鉱山に大商店を経営し、日ならずして他商店を凌ぐに至れり。其君は毛馬内青年会発起 の一員にして、同会の本日の隆盛、君に待ちたること少からず、君、成すべきこと成さ しむべきことのの多くを抱懐して、突然として逝く、享年正に三十歳、君に一男二女あ り。噫!!悲しい哉!
 
 左に君が葬式に読まれたる主なる弔辞を記して、以て君が生前を忍ぶことゝせん。
 
○弔辞
 私達が笈を負ふて大館の地に君と相会ふたのは、正に十有五年の昔、私がたった十四 才の少年時代の事で御座いました、新らしき学びの庭に、私達は親兄弟から離れた子供 の悲しい心持ちを、新らしく得た友達同志の交りに、慰めつ慰められつ強き有為の人た れとの、スパルタ的教育にはぐゝまされて、毎朝ねむい目をこすり乍ら、兵式体操や駈 足や、或は弱き足を曳ずって三十里の道を秋田市に往復し、其の日の疲れ取れぬ身体を 、澄みわたる月下に眠り眠り、能代に行ったことも御座います、不完全なるテントの中 に身を寄せ合ふて、夜霧を凌ぎ乍ら長い旅をした事も御座いました、春は同じ心に花を 眺め、秋は同じ思ひに月を見て、五ケ年の間に、吾々は尽く肉身ならぬ兄弟となってし まったので御座います、
 
 其後は各々の志に別れて家業を励む人、都に学ぶ人、朝鮮・北海道とちりぢりに別れ住 んで、交する事も時経るやうになったとても、誰か当時の交を忘るゝものがうりませうか 。
 私は八年の間、アメリカに居りましたが、風土異る所、習慣違ふ里、嬉しきは友達の 消息の文、その人の幸福は、蔭ながら喜ぶ、其人の悲みは又渡しの悲みであったので御 座いまい、昨年帰郷致しまして、今年は卒業十年振りの変った顔を合はせたいと、実に 此十二日に能代に相集まったので御座います。
 一人の先生と、九人の友の亡き霊に悲みを述べ、学生時代の無邪気な昔を物語り、十 年の経験を話し合ったのでしたが、君が奇禍と聞いては、皆々の心に、嬉しき中に心配 を持って幾度か君の事をも語ったので御座いまました、
 私は十四日に当地を通過し、夜学に間に合ひたい為めに急いで御尋ねも為得ずに帰宅 致しました、何ぞ知らん君が悲報、日ならずして私達を驚かさうとは!!嗚呼!!
 
 私達が世の中に出てまだ幾年にもなりません、私達が学び得知り得た処を事実にす るのは、今迄でよりも寧ろ今後にあるので御座います、此時に当った君は亡くなられま した、君が試みたい事はもう亡くなりましたのですが、君が為すべき事は残って居りま せんが、不慮の禍にあたら有為の生命を亡くされなさった君が心は、まあ!どんなに残 念でせうか、有為の君を亡はれた御両親、妻子様方の心の悲みは又如何で御座いませう か、思ふて茲に到れば実に腸九回し、只涙あるのみで御座います、私の心は我等同級生 の心で御座います、今後授け合ふべき兄弟の有力なる一人を突然なくした事は、数少な い同級生の間に、大なる落胆で御座いまするが、今は仕方ありません、只我々は途異る と雖も、君が志を継いで君国の為めに微力を致しませう、同級生に代って悲みを述ぶる 次第で御座います。
  大正四年六月十八日
      同級生に代りて
        川村直哉
 
○弔辞
 我曹は醸友豊口柳太郎君の遠逝を追悼し、併て本郡醸造業の将来に幾多の期望を尽し たる有為の士を亡ひたるは、斯業進展の上に遺憾とする所、大なるべきを感ぜずんば非 ず、茲に一同葬儀に列し、恭しく英霊を弔ふ。
      醸友会総代 關徳太郎
(外に毛馬内小学校同窓会及青年会の弔詞は略す)

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