鹿友会誌(抄)
「第十八冊」
 
△亡友追悼録
○小田島治右衛門翁 壮時、江戸に出でゝ剣を学び、戊辰の戦役には南部藩の勇士とし て驍名を馳せたる翁は、其の後、商に帰し酒造業に従事する傍ら、道場を設けて武術の 鍛錬に勉め、傍ら門下生を養成すること数十年、孜々として倦まず、(秋田)県内の老剣客として 遍く其の名を知らるゝに至 る、明治四十年頃推されて花輪町長となり、自治の為めに大に力を尽されし事あり、大 正三年一月老病の為め溘焉として逝かる。
 
○小田島陽之助君 治右衛門翁の令息にした、花輪小学校卒業後東京に遊学し、学と剣 とを併せ学び、帰郷の後は家業に従事するの傍ら、乃父に従ひて剣道を練磨し、出藍の 誉あり、資性温厚篤実の君子人にして町内壮年の範たりしが、大正三年十月四十一歳の 壮齢を以て卒然として逝かる、一町を挙げて嘆惜らざるものなし。
 
○青山雅雄君 賛成員青山熊次郎氏の息なり、尾去沢小学校を出でゝ東京郁文館中学に 入り、卒業後、或は日立鉱山に行き、或は雑誌記者として東都にありしが、不幸二豎の 犯す所となり、日立なる父君の膝下に久しく病を養ひ、稍々快復の途に就かれしも、昨 年十月俄然病革り遂に逝かる、君性、放胆にして芸術家の素質を備へ、文学に於て大な る自信を有されしが、志を伸ぶるに至らずして夭折されしは、真に悼む可し。
 
○戸川修二君 賛成員戸川省二郎君の二男にして慶応義塾に学び、快活にして光彩に 巧み実社会の人として大に期待されしが、宿痾肯盲に入ること深く、房州に病を養はる ゝこと約二年にして遂に癒えず、昨年七月空しく彼の地に没せらる、行年二十八歳、誠 に哀悼に堪へず。
 
○豊口柳太郎君 毛馬内の酒造業豊口甚平氏の息にして大館中学を出で、滝の川醸造試 験所に学び、帰郷後、銘酒の改良に勉めて、青年実業家として籍々の名ありしが、昨年 六月十五日、土蔵に入りて酒槽を検するの際、提ふる所の蝋燭の火、アルコール瓦斯に 移り、為めに大火傷を負ひ、三月を経て遂に起たず、奇禍真に悼む可し、令閨は会員中 島織之助君の令妹にして、一男二女ありと聞く。
 
○工藤庄兵衛君 尾去沢の人、鉱山に勤務中、昨年六月突如自殺を遂げらる、人、其の 故を知らざれども、蓋し脱し難き事情の伏在せるものありしならむ。運命の数奇悲む可 し。

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