鹿友会誌(抄)
「第十七冊」
 
△故人月旦「折戸龜太郎君」   弾正少弼
 僕が髫髪子たる時、「ヘルメット」帽を戴きたる一紳士を花輪に見る、行人伝へて折 戸先生と云ふ、彼れ鹿角先覚者と称すべきも、未だ天下の折戸たるに至らずして、非命 の死に斃れたるは残念だ、由来、天は容易に理想の実現を許すものではないから、彼れ 今日まで、生きて居ても果して、当時郷党は彼れに期待せるが如く、成功して居ったか どうか疑問である、寧ろ長生せずして死だのは、却って彼れの死を余韻あらしめたのか も知れない、彼れの如く、後進者を世話し、鹿友会の為めにも全幅の尽力を注ぎ、世話 好きの爺として、死後幾多景仰一身に鍾めたる彼れの如き、吾人は勿論、彼れの成功を 神仏に塩絶ち茶絶っても祈りて成功させて見たがった、
 
 彼が功成り名を遂げたら、所謂、沛中失意の壮士なしで、鹿角の青年は彼れの為めに 失意の者なき程に世話して貰ふて居たか、どうかは疑問なるども、鹿角青年の守護神とし て、御利益の有無に拘らず、多大の気休めになったであろうに、実に惜しいことをした 、一人の名声如何に赫々でも、其を中心として長閥とか薩閥とかの如く、多くの人材は 、其の郷里から出で、閥を造る位でないと、又駄目だ、親戚朋友後進に亦た失意の者あ る内は、余り威張れぬことは、人の能く牢記して置かねばならぬことだが、彼れの世 話好きを以て見れば、斯る事も知て居ただろうと思ふ、
 
 彼れ能く客を愛せず、吝嗇慳貪で一家の計に耽りしならば、鴆毒を仰て不自然の死を するに至らざりしならんに、在京当時より彼の家系は、常に収入以上に膨脹して、令室 は少なからず苦心したらしい、彼を藻鑑するには、令閨を説かねばならんが、令閨は、 十二所侯茂木氏の家老、鹽澤氏の出で、十二所の士族の女子は、行儀見学するには、大 島大将家にあらずんば鹽澤家に行くを当とせし程、家格厳正を以て聞いた家だ、従て令閨 も賢夫人だ、未亡人として能く郎君の菩提を吊ふて、貞操を尽し、死後の名を恥しめな い、此点は渡邊小太郎の遺族とは天壌の差異ある所だ、
 
 彼が二千金の為めに、悲愴の遺言状を書いて、武士的名誉を重じて、従容鴆毒を仰て 死するの一幕は、確かに悲劇だ、斯の一刹那の彼の心中を聞かば「斯くすれば斯くなる ものと知りながら、止むに止まれぬ我が思か南」であったろう、故に、深くは責めんが 、事の此に至らぬ前に何んとか工夫したらばと、彼れを惜むの情から非難したくなる
 彼の死につき、我輩鼓を鳴らして攻撃しなければならぬことはある、人は曰はんが、 彼れの昔、多少世話した連中に、死なねばならぬ苦境に近づきたる時、旧恩を被せて、 金の無心と思はるゝの断腸の思を忍び、某氏に其の金なければ死なねばならぬ事情を述 べて、金の借用を願ふて寄越した、某々氏等、大に尽力せば、僅かに二千金位は、どう にかなりしならんに、菅なくも断た、彼れ万事休矣、
 
 遂に鴆毒を仰いで死すに至った、之を春秋の筆法によれば、後進者、折戸を殺す、と 云ふべきだ、斯る実例、即ち多少の後進を世話しても、一朝有事の時は、世話した甲斐 もなく、何の糞の役にもたゝぬ、他人を世話するのは馬鹿らしいと、先輩に悟らしむる 実例を造らるゝのは、後世永久に、後進の不利益で、斯る背徳漢は、又後進の利益を害 する者だ、由来我輩の理想は、怨に報ゆるに徳を以てする君子たる能はずんば、一飯の 食も必ず報ひ、睚眥の怨も必ず酬ゆる的の、男子の真骨頂有したいと云ふのだ、然るに 昔、多少の恩誼を蒙りながら、錏の一文も恩人に報ゆることなく、殺したのは男の恥で ある、彼の忌辰に当る毎に、必ず寝醒めは悪く感ずるのであろう、斯る不義理は、後世 を害する甚だしきにより、注意をして貰ひたいものだ、
 
 彼れの月旦に当り、厳に恩人を見殺しにする様な腐腸漢を筆誅を加へて置く、而かも 死後の彼れは、渡邊の如くに蕭篠たるものでなく、後進に施したる積善は余慶を表して 、今尚彼れの墓を展し、彼れの生前を偲び、彼の未亡人は慰問せられて居る、上天の 霊、尚満足して居るであろう、
 彼の爾に賢なるもの、輩は其実、人生第一の迂者、最大 の不幸人なり、此点に於いて彼れを尚ほ景仰す。

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