鹿友会誌(抄)
「第十六冊」
 
△花輪の大鹽平八郎「關村金兵衛伝」   長松生
 金力に媚び、権勢に阿る、古今人情の同しき所、若し夫れ、金力に逆ひ、権勢に抗す る者あれば、長い者に巻れて儲けることを知らぬ間抜と嘲けらる、如何なる場合にて も、利害の打算に敏ならぬ者は、何時の世でも馬鹿者なり、況んや他人の犠牲となり、 其身を殺す者に於てをや、斯くすれば男の花たる義侠心は如何かするべき、彼の大鹽平 八郎の為せる所を見て、我が關村金兵衛氏の為せる所に対照すれば、何んぞ其事跡の似 たる甚しき、乞ふ少しく略を語らん、
 斯人死して七十有余年、其事跡を知る者益々少なし、幽魂地下に瞑目する能はざる憐 み、余禿筆を呵して之れを伝するに至れるものなり、勿論載籍の徴すべきなきを以て、 口伝を基として記するに過ぎず。
 
 天保の飢饉は、日本飢饉史中、酸鼻を極めたるものゝ一なりと云ふ、而かも惨事数年 に渡り、其間に起こりし幾多の語るに忍びざるものありしと曰ふ、
 例令ば花輪市日よりの帰路、母子共に飢え、母は児の飢に泣く其声を聞くに忍びず、 稲村橋より米代川に其児を投じ、生きて飢に泣くの悲を与へるより、之れを殺して飢饑 の苦痛を救ひたる等、亦た花輪の新田町より下町までの間に、餓孚道に横はる、日に数 十人なりと曰ふが如き、是れなり、
 
 当時の惨状、今聞くも尚ほ慓然たるものあり、花輪の富豪悉く賑恤せざるなし、独り 当時花輪第一、否な鹿角郡第一の金傑と称せられ、名、近県近郡に嘖々たりし、佐庄、 即ち奈良庄十郎、慳吝強慾飽くことを知らず、世の飢饉に乗じ、盛に田畝を買占め、財 産の兼併を縦にし、高利を貪り、餓孚の道に横はり、母は子を殺し、百姓の菜色あるを 憐むの心なく、一碗に粥も施す事なく、冷血酷薄、殆んど人間として見るべからず、百 姓の怨嗟益々甚しくも、鹿角地方の人心は、例令死するも尚ほ他人の物を奪ふて食う 程に猛悪ならず、唯だ徒に佐庄の家運を呪ふのみなりき、
 
 此に於いて此横暴に憤慨し、敢然挺身して瀕死の餓者の為めに、佐庄に救恤を請ひて 聞かれず、遂に脅迫的不穏の強請に出でたるものを、我關村金兵衛其人とす、
 由来富豪の徒は、礼を厚くし、穏健に請ふて与へる程、金離の好きものにあらず、彼 らは金品に対する念慮は、生命以上なるを常とす、故に富豪に請ふには、勢不穏の行動 に出づるの段落となるを免れず、之れ強請せし者の罪にあらずして、強請を余儀なから しめし者の罪なり、
 
 春秋の筆法を以て論ずれば、佐庄は關村金兵衛をして不逞の徒たらしむと曰はざるべ からず、佐庄は即ち、時の南部藩の重役に厚く賄して、我が關村氏を吏手に帰せしめた り、刑吏、既に黄白の眩惑する所となる、曲断不軌の徒を以て論ず、死罪を賜ふ、檻 輿に乗ぜられ、盛岡より佐庄の前を送らるゝや、輿者故に足を停む、關村氏、籠中より 呼んで曰く、『佐庄殿、黄泉で待ちてる、来なさい云々』と、之れ關村氏、千万無量の 痛恨を含める一語なりき、彼の心中、遺恨知るべきなり、下町刑場一片の煙となり、憐 むべし、
 彼、義侠の為めに斬首の刑に逢ひり、 彼の魂魄長く斯土に止まり、長恨の鬼となり、瞑目せざりしならん、刑人なる為めか 将た長く佐庄の家を瞰下睥睨せしめ、怨殺恨滅せんとの、当時の篤志家の計へなりしか 、恩徳寺門前花輪町に瞰下し得るの地に葬られぬ、之れを關村事件の概略と為す、
 
 何んと心情大鹽平八郎に類する甚しき、然るに此崇高の犠牲者たる關村氏の逸事は、 花輪町の人すら知らざらんとす、内藤博士先考の著鹿角史、亦た之れを逸せり、
 關村氏死して幾等もなぐ、佐庄は過あり、藩主の為めに欠所せられ、一家亡ぶ、当時 の人、痛快を叫び、以て關村氏の怨霊の致す所といふ、
 彼、刑せらるゝの日、実に天保五甲午年九月廿五日なり、其日は天、此義侠の刑人を 憐むが如く、密雲低くあめならんとせりと、碑文は空清安良水信士塚とあり、其芳はし き侠骨一片、以て花輪の傲りとして、長く後世に伝ふべきに、今や其菜すら知るもの稀 なり憐むべし、宜しく彼の忌辰には墓参及記念祭を行はゞ、気を養ふに足らん。
 
 由来南部藩の士風は、義気を貴ぶを以て誉あり、余は先づ相馬大作に指を屈す、我が 關村氏は相手は小なるだけ、脚色に乏しきを惜むものなり、矢立峠津軽侯の砲撃は痛快 なり、夜陰私かに妻家に忍び来たり、妻子離別の一幕は人を泣かしむべく、水戸黄門に 直奏は苦節人を動かすに足り、大作と比しては事蹟に於て彩色なし、佐倉宗吾、大鹽平 八郎等に比しても、皆悉く脚色の貧弱を憾とす、然れども後世に伝ふるに於いては、充 分の価値あるものなり。先づ聊か略伝を記するに擱筆し、異日詳細に記するの時あるべ し。

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