鹿友会誌(抄) 「第十六冊」 |
△史伝及月旦 ○故川村左學翁の小伝 川村左學翁は、故川村右學秀比大人の長男、幼名太郎と称す。三歳の時大人を亡ひたれ ば、母堂利恵子の手に養育せられ、備さに辛酸を嘗む。後、叔父川村寛平翁の教導を受 け、又家事上、故大壽翁先君の庇護を被る処尠からず、長じて南部藩済愛君に仕へ幼君 の伝役となる、其修むる処多く、国学にして一時花輪に住まはれし盛岡の儒者猪川某先 生就き、又勤番として盛岡に出でたる間、江者(巾偏+者?)梧棲先生に教へを受けたり。後家塾を開 き子弟をを教へ門人郡内に普し、 明治戊辰戦役に使武者として秋田に出向す。 維新の際、一旦農に帰し、明治三年春、江刺県寸陰舘舎長補拝命、同五年七月秋田県 御雇として学校主簿を命ぜられ、同九月学制頒布と共に解職、同六年九月花輪町郷社幸 稲荷社祠官となり、高市八幡神社社祠掌を兼ね、同七年二月神官を辞す、 同一月秋田県伝習所学校に於て下等小学校教科を卒業し、同年四月花輪小学校教員を 拝命す、是れ実に花輪小学校の創立並に教員拝命の嚆矢となす。 同九年二月秋田県太平学校に於て上等小学伝習科卒業、同年八月嘱任一等訓導に任 補せらる。 同十年西南の役起こるや感ずる処ありて職を辞し、同氏二十四余名と共に上京し、新 撰旅団第八大隊第三中隊第四小隊に編入せられ、警視庁三等巡査心得分隊長を拝命す。 已にして戦乱鎮定し解隊の命あり、戦地に到らずして将に帰郷せむとするに当り、宮城 の拝観を許され、畏くる吹上御苑に於て、酒肴料並に天盃を賜ふ。 同十年九月十三日秋田県庁下に帰り、再び嘱任一等訓導に補せられ、花輪小学校在勤 を命ぜらる。同年十二月秋田県庁より、同七年三月花輪小学校開設以来在勤勉励の廉を 以て金壱円を賞与せらる。同十二年十月学務委員に選挙せられ、同十四年三月補欠県会 議員となる。同年十月花輪小学校長となり、大里小学校及び三ケ田小学校、尾去小学校 、柴内小学校の各学校長を兼任を命ぜらる。 同十七年四月教育上勤労尠からざるを以て、文部省より一等賞として本朝六国史(箱 入)並に金蒔絵硯箱壱個を授与せらる。同十九年三月小学校長資格規定に依り解職、同 三十一年学校教員を辞し、同月鹿角郡役所より準教員準備場を委嘱せられ、三年間在勤 す。同三十二年以来所得税調査委員又は学務委員、町会議員、村社氏子総代たり。 大正元年冬、突然中風症に罹り、爾来稍々健康を恢復せるも、本年九月下旬更に急逝 腹膜を発し、同月二十三日遂に花輪町の自宅に逝かる、享年七十有三。 郷党父母を亡へるが如く痛悼惜かず、同月二十七日花輪町長年寺に於て神式を以て葬 る。会葬者旧門人、町議員、郡役所、学校職員、故旧等二百名、花輪町会は特に議決を 以て弔意を表し、又第一小学校生徒は雨中、正門前に堵列して柩を送り、又第二小学校 生徒をして特に斎場に参列せしめらる。大里周藏君本会を代表して弔詞を霊前に呈せり 。 翁学和漢を兼ね、又書を能くす、壮年の頃より俳句を嗜み晩年に及び鹿鳴会を組織し 、吉田五郎、齋藤麟道、佐藤健助等と共に和歌を楽しめりと云ふ。 △弔詞捧読者 花輪町長小田島由義、門人総代根市俊藏、同有志阿部徹郎、旧新撰社総 代吉田五郎、有志關徳太郎 △献詠 吉田五郎 哀れなる声を残して行く雁の 雲がくれにし空を眺めて |