鹿友会誌(抄)
「第十二冊」
 
△史伝逸事
○鹿角市瑣談   小田島省三
 本号会誌の為、氏に『戦国時代の鹿角』に関する寄稿を乞ひたるも、生憎多忙到底古書 を渉猟して、突差の間に筆を執るの暇なしとて断られたるが、左は過日同氏を訪れたる 所の談片に過ぎざるも、参考の為、茲に掲載することゝなせり、尚ほ興味多き詳細なる 鹿角史蹟に付いては、他日更に氏を煩はすことあるべし。原稿は、氏の校閲を経るの暇 なければ、文責固より筆者に在りと知られたし。(編者識)
 
一、戦国時代の鹿角
 戦国時代前記(豊臣以前頃)に於ける我が鹿角の位置は、頗る面白きものなりし。鹿 角郡は、地勢恰も日清露間に介在せる朝鮮に髣髴して、今の南部・秋田両藩の楔子をなし、 而して若し南部方の勢力伸張せんか、其の余勢、北秋田郡に侵入して、地理学上、所謂 米白川のボンチの境界点たる、北秋田郡早口にまでも西下して、其の附近に至る一帯を 領有し、又秋田方の勢力の盛反されたる時は、南部方を北秋田郡より駆逐して、今の 鹿角・北秋田両郡境を以て、南秋両藩の境界となし、若しくは鹿角一郡、秋田に属せる事 もありたるが如く、一張一弛常なく、宛然波間に漂ふ萍の如き状態たりし也。
 
二、田道将軍の旧蹟
 錦木村字猿賀野なる俚俗『将軍塚』を以て、田道将軍の墳墓の地となし、将軍は土蕃 と戦ひて利あらず、神田河原に於て戦死せるを、土民計りて、猿賀野に埋葬せりとなし 、毛馬内川と大湯川との間を『クスの水戸(みなと)』の旧蹟となすの説あれども、是 、史学上、何等根拠あるにあらず、固より後人の捏造に係る臆説に過ぎず、
 斯くの如き 伝説口碑は、史上の事蹟を私せんが為に好事家に依りて捏造せらるゝことは、通常あり 振れたる事に属す、若し一個たりとも、此の史実を確証するに足るべき参考品、其の附 近より発見せらるゝ事もあらんか、そは史学上、最も有益にして且つ興味多き事柄なれ ど、何等確実なる手掛りとなるべきものも無き以上、先づ猿賀野神社と田道将軍墳墓と は、全く没交渉なりと断ぜざるを得ず。
 
 按ずるに斉明天皇の御代、陸奥に於ける皇化は、南は仙台、北は僅に秋田に及べるに 過ぎざるに、斉明天皇より約四百五十年を遡りたる仁徳天皇時代の田道将軍が、単身鹿 角の如き僻輙の山間に足を踏み込みたりとは、到底信じ難きにあらずや。
 一説に将軍の旧蹟は、上総国夷隅郡に在りと伝へらるゝが、其の位置より云へば、猿 賀野に比して余程有力なるが如きも、これとても何等確証ありての事にはあらざるなり 。
 
三、戦国時代の都邑
 勿論詳細は知り難きも、南軍叢書等に記載する処に依りて察すれば、戦国時代に於て は、北部鹿角の都邑としては、毛馬内、南部鹿角の都邑は、花輪よりは寧ろ谷内、長牛 、石鳥谷等が盛大なりしものゝ如く思はる。
 
四、鹿角地名とアイヌ語
 鹿角の史蹟を研究する固より興味なきにあらざるも、若し鹿角郡内の地名とアイヌ語 との関係を研究して、アイヌ語より来れる地名に付いて、 正確なる解釈を下し得るに至らば、此の方面より更に面白き史実を発見せんも知るべか らず、僅にケマナイのナイは、"川"の意味なり位の事にては情けなし、花輪と云ふ地名 は、上野、甲斐、上総、安房等各地にあり、若しハナワをアイヌ語とすれば、之等各地 に散布せる同一地名とアイヌ人とに付、其の関係を知り得べきの類なり。

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