鹿友会誌(抄)
「第十一冊」
 
△史伝逸事
○おもかげ集   △○生
 川口月嶺先生は、洒落な画家気質の中に、一種の気骨があって、なかなか面白い人物 だったそうだ、何時か八戸地方に漫遊に出掛た時に、八戸城主が居舘を新築された折で 、丁度よい所と云ふので、奥(阜偏+奥、くま)や其他の揮毫を託された。
▲そこで先生も大に腕を振ふ積りで出頭すると、何でも向ふの家臣に大の俗物が居たと 見へ、並べ立てた唐紙や絹張りに一々何両何分と云ふ札が付て、多分報酬を先に示して 大に励ます積りであったらしい。
▲之れを見た先生、赫然として怒た「拙者の画は、金高で書き申さぬ、こう云ふことなれ ば、平に御断り申す」とずんずん帰りかけた。
▲向ふの家来達も、案に相違の体で大に狼狽し、言葉を尽してなだめたが、いっかな聴 かぬ、「某は一介の画工に過ぬが、苟も南部家の禄を食むものである、乞食絵師のお仕 向は以ての外」と、何と止めても止まらず、終に八戸を出発して仕舞った。
▲八戸の家中でも見損った過もあり、ロハの画工ならかまわないが兎に角、本家の家来 と云ふのであるから、捨てゝも置けず、家老の某が馬を飛ばして先生を追かけ、平謝り に謝って漸々引き戻し、饗応に饗応をして、やっと書て貰ったと云ふことである。
 
▲又こう云ふことがある、或る人が父の肖像を頼んだ所、先生も生前、懇意にした人故 、早速承知し、書て置くから何月何日に来いと云ふことであった、其の人は、期日に用 か出来て少々遅れて行くと、先生は、何時になく衣服を改め、出来上た肖像を床の間に 飾って、待って居ったが、非常な不機嫌で、苟も親の肖像を頼で置きながら、遅く来る は寛怠だ、と云ふこと、夫れから其の人は、何の気なしに平服で往ったのであるが、之 れも不敬だと云ふので、散々孝道の講義を聴かせられて、ひどく恐縮したそうである。
 
▲先生は、こう云ふ風に一面、厳格な所のあった人丈に古画の贋作や他人の偽筆を悪むことが非 常であった、或る人が先生の宅を訪問したら、立派な絹本の山水画が、ずだずだに引き裂かれて あった故、何ふした訳ですと奥さんに尋ねたら、之れは某弟子の作た古画の贋作で、計らず先生の 眼に触れたから、ひどく怒て、こうして仕舞ったとのこと、裂かずに置いて呉れさへしたら、羽織 の裏にでもなるものをと奥さん、つくつく嘆じて居ったそうだ。
 
▲此の奥さんは先生が漫遊中、下野の烏山(?)辺りで貰った方で、一寸飄逸な者だった そうだ、先生が江戸に居る間、国元から文通するに裏へ「お存じより」と書たなぞは振て居る。
 
▲先生の家には又、牛麿と呼ふ僕が居たが、之れも面白い男だった、何時か非常に先生の怒に触れ て、何ふ詫ても免されない、いよいよお暇が出たのて、去らば是れ迄のお給金を、と切り出した所が、今 度は先生の方でぐっと詰り、出で行くのは暫く見合はして呉れ、と懇願に及んだそうだ。
 
▲先生は、南部家のお抱画師で、多少の禄を領して居たに係らず、終始赤貧洗ふが如く で、奥さんの病没の際、夜詰の人達に饗するものがないので、毎晩いろんな面白い話を して酒食に代へたそうだが、此の時ばかりは流石、楽天家の先生も、大分苦しそうであ ったとのことだ。

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