鹿友会誌(抄)
「第十一冊」
 
△史伝逸事
○八郎太郎の事   石川六郎
 是れは、毛馬内のある家にて見出したる写本の写し也。口碑に伝はれる十和田湖の神 話は、屡々故老の物語りに聞きしが、写本の伝はれるは珍らしと思ひて写し置ける也。 但し其の写本が、果してどの位ゐ古い物であったか、今わからぬが残念なり(玉水生)
 
 八郎太郎は、鹿角郡柴内村の内と草木村とのまたぎ(猟師)也。来滿、小國山を越へ 、六戸の内奥瀬領の十和田へ行ける所に、まだはぎ小屋にて食焼け(しょくやけ)に居 ける故、沢へ下り水汲に行き、沢の内にいわなといふ魚三つあり、取て小屋へ帰りて 焼て食ける。甚味うまし。又彼の沢へ行き、残二も取て食しける。唯身体もゆる如くか わきける故、小屋に有ける水を呑けれども、呑みたらず、咽のかわき止まず、後には沢 水に吸付て呑みけるが、八郎太郎居たる所、次第に水増し、川欠になり、後には沢中、 沼になり、身体も替り忽ち蛇体(じゃたい)になりける。
 
 友達のまたぎ共、狩より帰り、八郎太郎を尋ねけるに、蓑かんじきもぬき捨、沼の中 に大蛇の形になり居ける。皆々動転して、如何なる事にて其の如くに成行けると尋ねけ れば、右の次第を一々申しける故、是非なく帰り、親兄弟妻子に其旨語りければ、大に 驚き、彼処に行き、八郎太郎に見舞申しけるは、今一度人間の形にて見え候得と申しけ れば、八郎太郎、又本(もと)の人体にて出で、申しけるは、
 前世の因果にて如此成りければ、思切帰り給へ
と言ければ、皆々も力なく、みのかんじきを形見に持て、洞に故 郷へ帰りける。今にその子孫ありて、其時のみのかんじきありとかや。
 
 則、彼の沼、十和田の潟、是也。
 それより歳時はるかに去て後に、観音堂六供の内、三戸郡科町龍現寺の近所に大滿坊 といふ出家有りけるが、常の願には、万代死する事を遁し給ひて、紀州熊野の権現へ三十三 度参詣しける、後、南宗坊と云ける、
 権現の告に曰、此生の麓に必ず艸鞋有り、其をはきて諸国を廻り、其わらんじ切れたる所こそ、汝が 住所にすべし、
とあり。果して草鞋あり、是をはき下りしが十和田の潟にて切れければ、則、蛇体とな りたる八郎太郎を追出し、住所すべしとて、飛び入りける。
 
 八郎太郎、大に怒り喰合ける。南宗坊は一代よみける経の数、口になり、又八郎太郎 は蓑の目の数、口になり、互にいどみ戦ける、終に八郎太郎、負て追ひ出さる。依て南 宗坊の潟と成り、今に至て喰合戦しける所、赤根島とて有ける。
 其より八郎太郎は、鹿角郡を潟にせんと、米白川をつき留めんとて、たてを廻し、大 石共を牛に附て、当領の十文字野越水越有(牛の爪路石とて、湯瀬にも石野にも有之) 、然所、鹿角の四十三体の鎮守の稲荷と、大湯の關神と、近所の宮へ御寄合、御評定有 て、花輪村寺大寝にて鍛冶十八人に金槌、鶴の嘴打せて、八郎太郎が包める所を破り給 ふ。
 稲荷等の神、御評定の宮を集宮(あつみや)といふ。花輪村より金槌鶴之嘴、牛に 附け、集宮へ遣し給ふに、柴内の近所にて牛、血を吐ける所を血牛村といふ。花輪に鍛冶 屋敷又は十二人にて金槌鶴の嘴打ける所を十二村といふ。
 
 扨、四十三体の内、大里村の稲荷は、高嶺に建立有る故、鹿角中、潟に成ても仙北を 守べきと、御寄合なき故、八郎太郎追劫以後、残りの稲荷連、怒り給ひ、大里の稲荷を 嶺より引き落し給ふ。夫より今に至りて米代川の端に建て給ふ。其時にあやまちし給ふ 故、いまだ彼はなり足を引給ふよし。
 
 扨、八郎太郎は、鹿角郡を追出され、方々訪ねて羽後秋田へ行き、男鹿村の内を宿か りけれど、里人、宿かさず、里の端に老人夫婦有ければ、漸々と宿を借りける。其処を 潟となしける。彼老人夫婦は夫故、今、男鹿神と祝ひける。
 
 扨、南宗坊は熊野へ三十三度参詣決願の夢想に、草鞋切と申処こそ汝が住家によして 、現に夢ける。彼わらんづ一足賜り、奥州へ下りける。十和田へ登りけるに、彼わらん づ切ける。扨こそ此山中は、我が住山と、木のうつろに座して朝夕、経を読誦しける。 十和田の沼主八郎太郎は、垂迹の位いに禁裡へ御番に詰ける留守の内、八郎太郎が女蛇 か女と化して、南宗坊の経を聞けるが、馴したふて、八郎太郎下向の時に、彼女蛇、南 宗坊と一所に成責ければ、八郎太郎も追出されけるよし

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