GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

名越(長牛:なごし)氏

※別掲考察
 長牛の名は、名越に由来するとされているが、何故、「長牛」に変ったので あろうか。
 
 ところで、「大日堂」の境内(社殿前)には、よく「牛」の石像が据え置かれて いる。
 そこで、大日様と牛との関係については、一般的には、 http://www.city.matsusaka.mie.jp/kankou/ureshino/maturi/dainiti.html
の説が妥当かと思われる。
 
 当鹿角はかつて、鹿角産の金や銀、銅などの地下資源を牛の背中に積んで、 野辺地や盛岡などへと運んだ。
 中でも長牛は、その経路の重要な地「城とも館とも」であった。
 それらの金や銅は、遠く奈良や京の都、また大坂などへと船で運ばれたのである。
 
 しかして、長牛「大日霊貴神社」の 言い伝え によると、長牛の大日堂は長兄と云うことになる。
 つまり、古来鹿角周辺には、大日堂が三社(五社とも)あり、 その存在意義の重要さ?からして、当時は序列がつけられていたことになる。 この言い伝えから推測すると、名越は、その昔第一位であったことになる。 そこで、そのことを将来に向って主張し続けるために、名越→長兄=長牛と 改名した……。
 
 何故なら、その後、金や銀、銅の主産地が、
@夜明島〜真金山(大葛)から段々と、尾去沢〜白根(小真木)へと移って行くに従い、
運搬経路も、
A桃枝(道枝)〜長牛〜夏井〜坂比平〜深〜寒背峠(さむのせとうげ)峠を越えて、 袰部(ほろぺ)〜盛岡への、いわゆる鹿角街道(細野道)から、湯瀬渓谷を経由する 鹿角街道(本道)へと移っていった。
 このことに伴い、大日堂の存在意義についても、
B首位長牛大日堂、次位小豆沢大日堂であったものが、その序列が逆転してしまった ……。

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