GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

内藤十湾(じゅうわん):内藤十灣・内藤調一

 鹿角志五巻を著す。

参考(出典):「鹿角のあゆみ」
 
 通称調一 天保三年毛馬内に生れた。内藤家は天爵(仙蔵)、十湾、湖南(虎次郎) と三代世に聞えた師家である。十湾は幼児より父天爵について儒学を修め、長じて泉沢修斎 の門に入った。一度江戸に上ったが、泉沢修斎に諌められて帰郷し、藩儒江幡梧楼について 学んだ、また長沼流の兵法を沢出善早に受けた。文学博士内藤湖南は十湾の次男である。 晩年に「鹿角志」を著した。
 
 即ち十湾は、伊藤為憲の「鹿角縁起」の後を受けて、郡内各種史料の蒐集に努め、 明治四十年三月「鹿角志」を完成した。その序文にもあるように、それは「遍ク故家 旧族ヲ訪イ、系譜私乗ヲ借少(金偏+少)シ、祠廟寺院ヲ歴詣シ、縁起什宝ヲ縦覧シ」 た結果の郷土史にして、地誌を兼ねた労作であった。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 鹿角志の著者 −
 内藤調一は、十湾と号し、天保三年三月、内藤仙蔵(天爵)の長男として毛馬内に生まれた。 父仙蔵は江戸に上るごとに朝川善庵に儒学をただした。十湾は父からその儒学を学び、 その後泉沢修斎の門に入り、学大いに進んだ。妻は修斎の長女容子である。
 
 また藩士川上東巌について詩文を修め、南部藩儒江者(巾偏+者)梧楼について学び、さらに 長沼流の兵法を沢出善平に受けた。戊辰の役には熊谷助右エ門らと共に従軍し、「出陣日記」二巻 を著わした。この間家の不幸が続き、妻や長男文蔵の死にあい、傷心にむち打ち、塾を開いて 子弟の教育に当たりながら、湖南の養育に全力を注いだ。
 
 たまたま、尾去沢鉱山所長の要望により、秘書として湖南を伴い同地に赴いた。五十歳以後 になってから生活もやや安定し、湖南を師範に入れたり、館に住宅を建てたりした。門に掲げた 「蒼竜窟」の額は吉田晩稼の書で、十湾自ら刻ったものである。
 
 晩年は読書の傍ら塾生の教育と郷土資料の蒐集に当たり、筋向いの奈良正太郎所有の茶室 「老梅庵」のあいている時は塾として使用し「育焉亭(いくえんてい)」と名づけた。 また旧家を訪ねて系譜などを調べたり、神社仏閣に参詣したついでに縁記や什宝を観賞した。 かくして、若い時に山に登ったり、勝景を探って得た資料を整理した。
 
 これらの資料に検討を加え、七十歳になってから「鹿角志」の編集にとりかかった。 この後数年の間全力を注いでまとめたものを、湖南が校正を加え、十湾の序、湖南の後序は 共に名文として後世に残された。そして完成したのは、十湾七十五歳の時であり、 明治四十年三月出版された。この鹿角志は鹿角縁記につぐ鹿角郷土誌の名著である。 内藤家は、伊藤、泉沢両家の学統を継ぎ、十湾の祖父官蔵、父天爵、その息湖南に至り、 京都学派の大山脈を形成したのである。十湾は、明治四十一年三月二十二日老衰のため没した。

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