GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

槻本幸八郎

参考(出典):鹿角市文化財保護協会機関紙「上津野」NO.5
 
<研究ノート>
槻本幸八郎と尾去沢銅山の近代化
− 経営組織を改編、開明思想の実践でも成果 −
     宮城県仙台第一高等学校教諭 吉城文雄
 
△ひっそり眠る墓石
 永い間探しあぐねていた仙台藩士槻本幸八郎は、盛岡市大慈寺町永泉寺の本堂わきに、 隣接の大慈寺にある平民宰相原敬の墓石と、さながら背中を合わせるかのように、ひっそ りと眠っていた。
 すでに回向する人が絶えて久しいのか、香花のあともなく墓石は苔むしていた。私は やっと探しあてた彼の墓前に立って、こみあげてくる激情を抑えることができなかった。
 私が、槻本幸八郎にかくも執着するのは、日本人である彼が、それまで南部藩から経営 を委任されていた盛岡商人村井茂兵衛に代わって明治五年からこれを引き継いだ岡田平蔵 (長州井上馨の腹心)の目代として、尾去沢銅山(現鹿角市、昨年(昭和53年)五月閉山) の近代化を、後述するお雇い外国人のそれとは異なる角度から指導し、立派にこれを成し とげた事実を高く評価するからである。
 
△経営権奪回の試み
 従来の所説によれば、鉱山業の近代化とは江戸時代を通じて、資本・技術・労働力を所有 していた山師・金名子(かなこ)たちによっる恣意的な生産活動(採鉱・選鉱・精錬など)を 容認してきた実態を、鉱山所有者=経営者の側にこれを奪回することが出発点であり、 このための手段としてとられたのが、明治政府による官営鉱山へのお雇い外国人の雇用 であった。
 そして、彼らによる先進の理論と、機械技術を基調とした革新の結果として、鉱山所有者 =経営者による採算を考慮した経営構想に基づく、生産活動の具体的な展開がそれであると 規定している。したがって、経営組織の改編は、機械技術の導入の結果に追随するするもの であった。
 だが、民営尾去沢銅山における槻本幸八郎の近代化は、お雇い外国人の試みとは逆に、 山師・金名子の恣意にまかされていた経営権を奪回する手段として、経営組織の改編から 着手した。
 
 まず、経営の中枢として執頭局を設け、その下に採鉱部門として典正所と精錬部門の 製鉱所、それに事務の俗事方及び医局を配置した。ついで、従業者の職名を改め、かつ 頭取以下の職階を確立した。また、労働報酬も従来の米、塩、みそなどの現物給から整序 した賃金体系のもとに貨幣給を基本とし、さらに、労使相互の労働協約を締結し、これらの 定着とのかかわりで、明治十二年から削岩機、ダイナマイト、運鉱車などの諸機械を導入 して、彼の指導にかかわる近代化を完結した。
 したがって、わが国鉱山業の近代化は、お雇い外国人によって、官営鉱山中心に展開 されたとする従来の所説の他に、これと併行しながら民営鉱山における日本人自身の手 になるもう一つの近代化の展開があったといえるからである。
 
△邦人による近代化
 この日本人自身による近代化という視点に立って、全国の動向をみた場合、槻本幸八郎 の業績に類似する成果が各地の民営鉱山で見られる。たとえば、五代友厚所有の半田銀山 (福島)、住友家所有の別子銅山(愛媛)、旧藩士所有の石見銀山(島根)などである。 半田銀山は吉田市十郎、別子銅山は広瀬宰平、石見銀山は安達惣右衛門などによって それぞれ進められた。だが、これらの諸鉱山は厳密にいえば、直接間接にお雇い外国人の F・コワニー(仏)、R・フレシウィル(英)、L・ラロック(仏)、P・サルダ(仏)などの 関与があったのである。尾去沢鉱山の場合も確かに、L・ジンジル(米)の入山があった けれども、半田、別子、石見などのように、近代化についての直接的な指導の痕跡を見 いだすことができない。

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