GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

槻本幸八郎

参考(出典):鹿角市文化財保護協会機関紙「上津野」NO.5
 
△「世良襲撃」に参加
 いったい、槻本幸八郎のこのような発想の基盤が、いつ、どこで、どのように形成された のか、また、彼と尾去沢銅山の近代化のかかわりが、何を契機にしたものか、現段階では なお不明の点が多いのであるが、仙台藩士の漢学者岡鹿門が撰文した墓誌銘や、内藤湖南 の父内藤十湾の槻本君行状などを基本に、残存する関係史料を総合してみると、その生涯 はつぎのようなものであった。
 
 彼は天保十四年(一八四三年)、仙台藩士菅野甚右衞門(八俵取り)の第三子として 出生、母は同じく仙台藩士引地家の出である。文久三年(一八六三年)、彼が二十一歳 の時、母方引地家の一族、松川善吉(十八俵取り)、和佐夫妻の養子に迎えられ松川豊之進 を名乗った。五年後維新の変革期を迎え、参政書記として戊辰の戦乱に転戦した。この 過程で、官軍参謀世良修蔵を福島の妓楼金沢屋に襲撃して、これを暗殺したグループの 一員として政府の訴追をうけ、逃亡した。彼は養家に難が及ぶことを恐れてか、翌明治 二年六月十三日をもって松川家から脱籍した。
 令孫槻本博氏によると、世良の暗殺直後の数日は大槻磐渓にかくまわれ、後東京に逃亡 した。このときの大槻氏の恩義に感じ、槻本幸八郎と改名した。彼の墓誌銘を撰文した 岡鹿門との出会いは、この東京逃亡中のことであったし、また、右の墓誌銘や槻本君行状 などに、彼は「洋風の測量術」にすぐれていたとあるが、それも、世良の暗殺後から、 明治五年岡田平蔵に懇望されて尾去沢銅山に入山するまでの間、一時海外(中国とも アメリカとも云う)に留学したもようで、おそらくその際に修得したものと考えられる。
 
△洋風測量術を体得
 彼は、この海外留学を通じて得た洋風測量術をもとに、尾去沢銅山の近代化に成功した 一介の鉱山技術者であっただけでなく、開明的な思想をもつ実践家でもあった。
 例えば、当時尾去沢の地籍・民籍はともに隣接の花輪の所轄であったが、事業展開の 関係もあって、官裁をえてこれを分離・独立させて尾去沢の行政的自立を図った。さらに 小学校を創設して坑夫の子弟の教育を行い、新聞を購入して鹿角盆地の一帯にその購読を 勧め、六十歳以上の老齢者には金品を贈るなど、こと鉱山業の近代化のみならず、万般 にわたる近代化を推進した。
 
 その後、尾去沢銅山は岡田家から岩崎家=三菱に譲渡された。彼は引き続きその指導を 託されたが、明治二十一年三月突然発病した。東京で療養して五月帰山したが、六月に 再発、岩手病院に入ったが回復することなく八月四日院中にて没した。行年四十六歳で あった。岡鹿門は、彼のために撰文した墓誌銘の最後に、彼との出会いと別れについての 奇縁を、情感を込めて記している。
(附記)昭和五十四年十月十八日付「河北新報」文化欄に掲載されたものを転載させて 頂きました。

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