GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

豊口竹五郎

 毛馬内町長。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 大湯街道に尽力 −
 豊口竹五郎は明治七年二月二日毛馬内に生まれた。若くして政治に志し、秋田県会議員として十数年にわたり、 大日向作太郎議長とは意気投合して県政に尽くした。殊に鹿角郡の大湯街道の前身来満街道の開通には、 全力を注いだ。もと大湯温泉に行くには、寺の坂から上野平を通り、腰廻りから湯治に行ったものだ。 更に大湯から不老倉鉱山を経て、田子から青森県に入り、三戸から八戸に通ったものだ。その難儀なことは 想像にあまりある。そこで中野から新道を作ることになったが、田をつぶすことには地主や小作人の反対が強く、 一時中止の気配にもなったのを、竹五郎の政治的才腕によって、その危局を脱して大正元年完成を見るに至った。 また花輪線の前身たる秋田鉄道の大館からの延長には、後藤新平と協力してその実現を期した。
 
 竹五郎は昭和二年から七年まで二期にわたって毛馬内町長に挙げられ、行政的手腕を発揮したことは人のよく知る処である。
 竹五郎は昭和八年六月二十三日、病のため遂に没した。
 
 竹五郎の弟亀五郎は、県の養蚕技師として県内の養蚕指導に当り業績をあげた。
 亀五郎の長男豊口克平は、工業デザイナーとして国際的の知名人で、武蔵野美大教授として令名がある。また夫人登美子は、 日本女子大学国文科を卒業し、歌人として全国短歌大会に入選したり、八雲賞を受賞し、昭和四十五年「花杏(はなあんず)」 の名著がある。
 また竹五郎の祖父小七郎は、有竹と号し、漢詩をよくし、また書も巧みであった。

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