秋田県教育界の重鎮。 参考(出典):「十和田町の先輩」
豊口鋭太郎は、明治六年十一月四日毛馬内の豊口曽弥の長男として生まれた。 明治二十八年秋田師範を卒業したが、その後東京英語学校で英語を学び、また東京国語講習会で国語の勉強 をしたり、伊沢修治について発音学の講習をうけている。 鋭太郎の初任は毛馬内尋常高等小学校訓導であるが、小坂校訓導から大湯小学校校長を経て、 再び郷里に帰り毛馬内小学校校長となった。 明治四十一年来創設された本県の指導学校ともいうべき、男子師範附属明徳小学校が秋田市にあった。 鋭太郎はその学校の首席訓導に招かれて明治四十四年一月赴任した。まもなく大正の新教育勃興時代に なったので、鋭太郎は、その才能を発揮して本県教育のため活躍したのはいうまでもない。 その後旭南、横手、大曲各小学校長を歴任し、名門校の名をあげた。すなわち独特な学校経営と共に 政治的統率力で知られた。 昭和五年定年退職の後、日本赤十字社秋田支部の主事となり、また愛国婦人会支部の主事を兼ねて、 当時難局にあった幾多の諸問題を処理して支部を建て直した功労は大きい。 昭和十二年秋田県教育会長として本県教育の振興に尽くした。元の「教育会館」は鋭太郎の画策によって 獲得したものである。また同年、帝国教育会の理事として、永田秀次郎会長の片腕となり、昭和二十一年八月三日 から開かれた、世界教育会議を東京に誘致することに全力をつくした。これが我が国に初めて開かれた 世界会議だともいわれた。この会議に協力した現存者には、元参議院議員市川房枝がいる。 鋭太郎は頭脳明晰で哲学や心理学にも通じ、また余技として囲碁に強く、佐々木幸助六段の高弟として、 県下有数の高段者であった。当時県会には山本議長があり、県教育界に豊口会長があり、毛馬内出身者の 活躍の時代であった。昭和二十七年九月六日脳溢血のため没した。享年八十歳。
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