GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

高田周助

 旧尾去沢村西道口居住の士族関金吾の弟。
参考(引用):佐藤政治「ふるさと散歩」
 
 私たちの「鹿角のあゆみ」(昭和四十四年刊)の五十七頁に「廃藩置県と鹿角」とし、 その見出し「転封阻止運動」の中で、その運動の概略を記している。即ち南部侯が戊辰の役後処置として 盛岡より白石十三万石に転封されるが、その時南部藩士又は領民が、転封阻止に歎願運動を起すのである。 花輪の小田島由義等が微行して盛岡に出て、さらに身をやつして江戸に出、身命をかけて親藩諸侯や要路を 奔走したが、「乍恐奉歎願候事…(本文略)…明治二年正月、鹿角郡惣百姓」、「同題(本文略)花輪村百姓」 として百姓たちからも歎願があったことである。私(筆者佐藤政治)は当時の人々の「士道」とか「義理固さ」 にひどく感動して、記事としたのであったが、その中の連名の百姓の中に「周助」の名がある。 小田島由義「遺烈余芳」巻二に「高田周助境内掃除ノ事」として、歎願運動の具体的事例を述べておられる。 心打たれるまま、これをここに紹介したいと思ったのである。本文は格調高い漢文調の名文であり、そのまま 呼んで頂きたいのであるが、余りに長文となるのを恐れるのと、拙文に訳す不調法に悩んだのであるが、 敢えて紹介として拙文にしたことをお許し頂きたい。
 
 「高田周助境内掃除ノ事」は、明治三十年五月、正に桜山神社分社の準備に大童の時である。 尾去沢村西道口の高田周助が、その役員の小田島由義を訪ねて言うには、「愚老は先年南部老公に奉仕し、 その特別な御高恩を無寐(むび)にも忘れることがない。今般桜山神社の御建設に奮って御寄付申度いのが万々だが、 微力の私の及ぶ所ではない。この場合、明日より同社御境内の草取掃除をし、労力を以て報恩の万分の一に 供したいので御承諾を」と誠心顔に溢れての願い。由義はその好意に感動し、惣代人等と協議してこれを許したら、 その翌日から数日間、桜山の掃除に従事したのである。
 
 さてこの高田周助なる人物はと、彼の別の行動を詳述しておられるので、その文に即して紹介したいと思う。

 高田周助は旧尾去沢村西道口居住の士族関金吾の弟で、文政九年(1826)に生まれ、二十一才の時、 同村農業高田治郎吉の女婿となり、農業に従事していた。慶応四年即ち明治元年の秋、久保田藩襲撃戦争 (戊辰戦役)となり、そして謝罪休戦した。時に薩・長・肥等の大軍が鹿角口より盛岡へ通行に当り、 周助は国境土深井、松山等に出張し、花輪通りの諸人夫引廻しの役に服し、昼夜奔走、数日間勤務の末、 首尾よく結了したので家に帰っていた。 所が同年十二月藩主は減禄して白いしに転封することになった。翌明治二年一月、目付役沢出善平が花輪に出張し、 各町村の検断、肝煎、老名等数十名を代官所に呼出し、今般藩主は減封の上、白石への転封、これは万々余儀 無き次第の理由で、全く朝廷の御寛典に出たる訳合と懇々と説明し、又従来数百年君臣たる深厚の情誼も 茲に一旦断絶するが、前述の意を体し飽迄も静隠謹慎、朝廷至仁の御主旨に背かず旧主誠忠の心情に悖(もと) らないよう縷々告別の君命を伝えた。 (註 藩主南部利恭の決別布告文は「鹿角のあゆみ」五十八頁にある)
 
 周助は感慨情迫り、咽噎(おえつ)、座に伏して起つこと能わず、善平頻りにこれを慰諭して漸く退出させた。 周助帰途熟々勘考し、数百年来の高恩の領主と永別の場合に迫る何等かの方法があろうかと苦慮百端、熱腸九廻、 殆んど狂するが如きものであった。そして奮然、この国難の大事に会して豈黙止するに忍びない、寧ろ余一人 たりとも身を脱して上京、官司に旧君復封の切願を為し、事若し成らずんば身を庁庭に捨てて以て君恩に 報ぜんと堅志茲に決したのであった。然し旅費なきに究し、同夜直ちに同人養母の実兄、尾去沢銅山支配人 斉藤忠太を訪れ、単に至急の入用とて金五両を借用、帰村して潜伏し、夜更け人静まるを待って自家に忍び入り、 旅装を持出し、父母妻子の寝姿に暇乞いし、若しこの心願を果さずんば生きて再び帰宅しない旨の遺書を残し、 涙を払って水垢離(みずごり)をとり、深更雪を踏んで蟹沢村三宝荒神社に参籠した。 そして志願貫徹の祈願を凝らし、心願果さずんば一命を絶たれんことを祈り、鶏鳴と共に大雪を侵して同社を 発して途に上った。然し気、固より鋭なりと雖も丁度厳寒且つ積雪股を没して歩けない。払暁漸く湯瀬に至った所、 幸いにして三ケ田村の者五、六名、地頭転封決別のために盛岡に出ようとするのに会い、見え隠れに其の跡を踏み、 夕刻荒屋新町に達し、止宿する三ケ田村一行を追い越して独り七時雨山の険難を越えた。 常さえ容易でない難所であるのに、周助は初旅である。且深夜であり、白雪道を没して殆んど識別できない。 伏してわずかに前路を覆い歩を進める有様で進行遅々、困難辛酸、鶏鳴漸く寺田新田に達して宿をとった。
 翌十二日午後盛岡着、沢田等宅に泊った。翌十三日花輪代官杉村岩松を訪ね、赤心を語るのであった。 然るに此の時藩主の転封を悲しみ復藩歎願のため上京する士民が頗る多かったので、 杉村は周助を普通の歎願者として遇するので、周助甚だ不平の色を表し、直ちに辞し去らんとした。 杉村は其の決心の異常なるを看破し、その鉄腸石の如きを探知し、且つ嚢中空冷なるを聞き、初めて密かに 小田島徳弥(由義)も他に潜伏して上京を窺っていることを告げ、これと面会し、赤情を吐露し、そしてこれに 随従したらと諭した。周助は色も解け、大喜びしてその翌日杉村宅にて徳弥と会い、意気投合して同行の 承諾を得たのであった。……(中略)……

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