GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

高田周助

 明治二年二月上旬、周助は徳弥及び花輪人の佐藤建助らと一連同行、上京した。 着京の翌日小田島は予期の目的により一連を脱して他に潜伏したので、周助は残りの一行に加わり、 太政官以下諸官衛旧薩長土肥の四藩は勿論全て有力の諸藩邸を歴訪、旧主復藩の件を懇々歎願したが、 周助は常に衆に先立ち、縷々赤心を吐露し、告ぐに涙を以てし頗る感動を与え、殊に諸官衛に出るや 強願して退かず、説諭に告ぐに叱咤されるも死を決して恐れず、 有司も遂に其の赤心に感じ懇ろに慰諭して漸く去らしめるのであった。 周助は歎訴の際は常に死を決するがため、若し死後に至り身に一金をも帯びざる時は、 窮迫の余り止を得ずしてこうしているのではとの嘲りを受け、汚名を藩邸に及ぼさん事を慮り、 出京の途次小田島より附与された金員は必ず懐中にしていたという。又周助出京するや米俵を買入れ、 夜中に草鞋を作ってこれを売り、又暇あれば旅店の労役に服する等、所持金はむしろ増殖していたという。
 周助の誠実なる挙動は頗る他を感動させたので、その噂は自然に藩邸内に広がったためか、請願の出京者追々 帰国した後の同年四月、突然麻布藩邸詰、徒(から)目付田中館伝蔵より呼出となり、同邸の掃除番を申付けられた。 周助感佩謹んで以後丹精こめて勤務に服していた所、当時戊辰役の首謀者として東京に禁錮されていた楢山佐渡が 償罪自刃のため帰国させられるを聞き、周助は深く其死を惜しみ、そして後れて東京を発し、途中に於て同人の輿中に 入代り、直ちに割腹し以て同人を救わんと企て、その要旨を認め密かに佐渡の腰中に投入したが、事発覚し目付役 水原一の懇到なる制止を受けて遂に果さず。
 
 その後主上が東京城に臨幸されるを聞くや周助は我が一生の大願は既に出来得る限りの力を尽したが、 その成就には尋常普通の手段では万々覚策ない。この上は既に無きものと決心した我が身であるから、 東京中に鳴り響くべき非常手段に訴えるより外なし、彼は佐倉宗吾の故智に倣って最後の動作に出で恐れ多くも わが身は忽ち其の地を去らず砕粉することを決意し、品川駅での直訴を強行せんと考えたのである。
 まず夜更け人の寝静まるを待ち、密に歎願書を起草し始めたが、一両日にしてその灯火を怪しまれ、 吏員の探索するところとなり遂に発覚、吏員は驚愕一方ならず、周助を一室に禁固し、主上御着城の後に 漸く釈放されたのである。
 
 其の年の八月に至り藩民の歎願、周助等の誠志天に通じたか、旧主は盛岡へ復帰、更に金七拾万両の献納を 命ぜられる大命に接したのである。周助は歓天喜地手の舞い足の踏む所を知らず感泣したのである。 然し此の戦後の疲弊の中で七拾万両の献金は其実に堪える所に非ず。去り乍ら至重の恩命に尽さねばならない。 殊に今直接に此の吉報に会せる在京藩邸詰の有司等速時応分の献納をしなければとしながらも、その大金に 対応するに躊躇していた。周助は直ちに衆に先んじて金五円を献じるや、此の挙人心に感動を与え、 其噂邸内に喧伝し、卑しき御掃除番にして此の金額と驚き、各自は分外の大奮発をし、さらに出入の諸商人に 至る迄続々献金が増したのであった。
 この事あるためか、某月廿九日、勝手方福士伝六より呼出しあり、御配膳役を申付ける旨達せられた。 周助は身の不肖且左足不自由の不具なる旨を以て之を固辞したが伝六許さず、此の職は直接主公の饗膳を扱う 大切の役目であって、側目付堀江司よりの達なるにより猥りに辞するを得ずと、周助感佩して命を奉ずることにした。 そして日々出勤したが、同役の吉田某、吉島某が周助の素朴なるを侮り殆んど小使の如く過したが、 周助は更に争わず孜々と勤勉していたが、間もなく堀江司の知る所となりその待遇が俄かに一変したという。
 
 同年十一月六日、利剛老公急に帰国せらるるに周助は配膳役を以て老公の草鞋取役を申付けられ随従、 同月下旬盛岡へ到着、当時郁姫君が華頂宮親王家に御輿入の事あり、周助はその御供に加わる事になったが、 延期に付き果さず、依って同年十二月下旬一先ず帰宅の御許が出たが、記念として藩主直筆の「忠即無二心」 の軸と金拾円を賜ったのである。周助は金拾円は御国費多端の場合なりとして直ちに之を献じ、 同月末漸く家に還ったのである。
 
 周助はその後年に数回機嫌伺として盛岡に出、土産品を献じ、老公はいつも早速謁見を許し、懇命を賜り 料理を饗せられたという。周助性率直質朴に辺幅を飾らざる御勤めに次の挿話もある。 即ち麻布邸より君公乗馬で登城、将に立出でられんとする際、乗場糞便して玄関を汚し、供勢は環視して之を 如何共する事能わず、周助之を知るや走り出て直ちに自分の上着の袖無し羽織を脱いで馬糞を包んで去ったという。
 又利剛公に随い、帰国の際、水戸街道の悪路泥濘に老公馬上で之を過ぎようとし、馬つまづき将に倒れんとした時、 周助は堅く馬尾を握り手を上げて馬を制し之を助けた。老公その素朴にして装飾なきを深く愛されたという。
 
 以上「遺烈余香」(註 花輪図書館蔵)によって、高田周助の誠実な所業を紹介したが、又後日、桜山神社を分社して 花輪にお移し申す途次、祭神お仮泊の時の宿直は、特にこの周助に依頼されたとあるが、一貫した周助の 誠実が偲ばれるのである。
 尚不肖にして帰郷後の周助の身辺の調査には未だ手をつけれないでいる。
(昭和六十一年「かえで」第十号に起稿)

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