大光寺左衛佐は花輪城代として、天正年間の頃、鹿角郡内の庶政全般を担当した、と云う
(天正八年(1580)知行三千石を賜り、花輪臥牛本館に居る − 鹿角のあゆみ)。 (参考:佐藤政治著「ふるさと散歩」)
鹿角は昔から、南部、秋田、津軽又は比内との境に位置していた。南部氏は、花輪城(館)はその防衛前線基地として、 初代城代に大光寺正親(初め光親と名乗った)を配置した。時は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣する留守の固めとして、 前年(天正十七年)に大館城(秋田氏)を陥した功のあった大光寺正親を据えた。三千八百石で花輪、尾去、石鳥谷、 三ケ田、夏井の五ケ村を領地とした大身としてであった。 花輪城の初代城代大光寺氏は、正親以来五代54年間にわたって花輪城代を務めた。
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