村長三十年。 参考(出典):「十和田町の先輩」
高橋栄治は元治元年十二月二十六日、毛馬内の高橋新之助の長男として生まれた。 七滝初代村長高橋定志のあとをついで、明治二十四年一月二代目から九代目まで、 三十年二ケ月にわたって連続当選したのは、町村制実施以来、本県では初めてである。 栄治は明治五年泉沢塾に学び、十三年毛馬内小学校上等科卒業後、小山善五郎について漢学及び数学を学んだ。 七滝村長に当選以来専心村政に当った。当時の七滝村は、純然たる農村で、しかも土地の大半は殆ど他町村民の所有で、 自作農は乏しく全村の窮乏甚しかった。加うるに小坂鉱山の発展に伴ない煙害が甚しく、土地の荒廃を来たし、土地を捨てて 出稼ぎするものが多くなった。従って納税成績も不良で、役場や学校の給料不払いとなった。 村長はこれを憂い、有志と謀って村勢の復興に日夜苦心し、村民の協力勤勉を計り、納税組合をつくり努力の結果、 次第に成績が向上して、秋田税務署から表彰されるに至った。 また教育についても識見があり、七滝、山根、上向の校地は全部借地であったので、小坂鉱山を説得して、 その寄付金を以て悉く買収した。 彼は村長在任中に鹿角郡会議員、鹿角郡名誉参事会員、鹿角郡教育会副会長、鹿角郡農事評議員、 秋田県農会議員などを歴任した。 彼はまた、偉丈夫で胆力があり、識見に富み、県議豊口竹五郎と協力して、いわゆる高栄・豊竹時代を画した。 特に十和田湖の境界については、青森県側と直接その衝に当り、青森県が主張する 「全湖は十和田町神社の 所有である」との説を覆えし、「神田川から御鼻部山を見通した線」に決めたのは、実に高橋村長の力である。 また和井内貞行を助けて養魚事業を初め、幾多の行政上の難問題を解決した陰徳は沢山ある。 十和田湖に関しては、「養魚の和井内」「開拓の栗山」と共に、「行政の高橋」というべきである。 昭和二年七月十一日脳溢血のため逝去した。 現十和田町長高橋忠は孫に当り、初代毛馬内消防組長若松徳治は、栄治の実弟である。 |