女流教育家。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 女流教育家 − 高橋シホは、毛馬内戸長から七滝初代村長になった高橋定志の次女として、明治元年十二月八日、 毛馬内古町に生まれた。幼少から学を好み、明治二十一年四月、当時徒歩で三日かかる秋田市の師範学校に 入学し、二十四年三月卒業したが、鹿角郡としては、女子の師範卒の第一号であった。初任は北秋十二所の 成章小学校で、まもなく小坂校に転じ、さらに山本郡の森岳、大湯の各校を歴任し、明治三十三年三月、 毛馬内小学校に転任して郷土教育に当った。 晩学であるが、向学の念やみがたく、明治三十六年三月上京して、国語伝習所に入学した。 当時の教授陣は国漢文の権威者、落合直文、金沢庄三郎、佐々政一、平田篤胤らの著名人ぞろいであったから、 学力が大いに進んだ。三十七年に文部省の中等教員検定試験をうけた。受験者は五百八十二名あって、合格したのは、 わずか八十二名、その中女子の合格者は二名で、シホはその一人であった。さらに翌年三月本試験に合格した。 その後明治四十一年五月、青森県立弘前高等女学校教諭に任ぜられ、舎監などを兼任して昭和二年三月まで、 二十年間にわたり専心女子教育に尽くした。 シホが弘前高女在職中に、伊藤良三が来任したり、参議院議員の神近市子が若かりし頃同職であったり、 石坂要次郎夫人が教え子であった。シホは花を愛したが、この校庭の桜は早咲きであったので、生家の 老松庵に移植したのが、毛馬内で一番早く咲く桜である。 シホは、生来学に励み、教育を楽しみ一生独身を通して、生家をこよなく愛し、実母や祖父母の生存中はよく 孝養尽くした。また克三初め親戚の子女の教育にも力を入れて、学資などを貢ぎ、尊敬された女流教育家であった。 また平素和歌をたしなみ、「詠草」一巻の著がある。「読書」と題した一首を掲げよう。 読む文にただ一人居てほほゑまれ 或は涙に袖をぬらしつ 昭和二十八年四月二十七日老衰のため八十六歳で天寿を全うした。 |