私立立山文庫を創設した。毛馬内。昭和十二年七月三十日没。 参考(出典):「十和田町の先輩」
立山弟四郎は慶応三年(1862)毛馬内町の医師内藤周蔵の二男として生まれた。 八歳にして毛馬内小学校に入学した。この時の先生に和井内貞行がいる。 卒業後はもっぱら独学である。生家は医者であるから、色々の書物があったので、手当り次第読破した。 二十一歳の時、叔父立山周助の養子となり、その長女キサと結婚した。 養家は地主で養蚕を家業としたので、自らこれに従事して組合を作り、鹿角郡養蚕同業組合議員に選ばれて 郡内の指導に当った。 明治四十三年鹿角郡で初めての毛馬内森崎耕地整理組合(組合長勝又平太郎)の顧問になり、ついで 同年瀬田石耕地整理四十五町(組合長内藤順吉)、大正十二年には高清水十二町歩と荒谷八十二町歩の大事業を 自ら組合長となって完成した。さらに乾田耕作法や暗渠排水を奨励して増産を計った。また、小作人組合をつくり、 地主と小作人の親善をはかった。 弟四郎は、秋田県種苗交換会の立役者であった。談話会での発表は、常に注目されたものだ。 また十和田湖の開発と観光に努力し、和井内貞行のよき後援者であった。また早くから秋田鉄道の重役となり、 開通を促進したり、鹿角自動車会社を組織して交通網の整備に尽した。 弟四郎は平素敬神の念が篤く、神道の普及、和歌の奨励をしたが、一代の偉業は立山文庫の創設であり、 またその遺言により嗣子廉吉がその蔵書一万巻を毛馬内町に寄付し、十和田町図書館の基礎を築いたことである。 また氏の履歴書を見て驚くことは、諸会、団体、官庁からうけられた表彰状の多いことである。 昭和三年には宮内省から教育功労者として観桜御会に、同十一年には耕地整理の功労により、宮城内観菊御会に 召されている。 昭和十二年七月三十日病のため遂に起たず行年七十歳をもって、多彩な生涯を閉じた。
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