北嶺の長男、毛馬内の画人町長。 参考(出典):「十和田町の先輩」
北嶺の長男虎二郎は、慶応二年毛馬内に生まれた。湖南や伍一と同年である。父に似て絵がうまく、 小学校を卒業して、花輪にある郡役所に勤めたが、絵の志を捨てなかった。 たまたま同じ役所に、のちの寺崎広業が勤めていたので、二人は絵を通して親しかった。 広業も同じ年齢で、二人は机を並べていたのは明治十六年の十八歳のころだ。 当時の郡長は戸村義得で、芸に理解のあった人だけに、二人は存分に絵を描き、とうとう二人が故郷を出て 出奔したのは、明治二十一年のことである。 東京で二人は下谷黒門町の平福穂庵の家に寄った。しかし無断で家出したというので虎二郎は父の怒りに触れて 呼び戻された。父北嶺は絵の世界のつらさを知っていただけに、子供だけは苦労させたくなかったのであろう。 帰郷後虎二郎は毛馬内町助役となり、明治三十三年から大正五年まで町長を勤め、「町長さん」といえば、 田中町長にきまっていたものだ。今日川口月嶺の絵が本県に残っていたのは、虎二郎のコレクションによるものだ。 昭和十六年病のため没した。墓は毛馬内常勝寺。
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