九戸一揆(九戸政実の反乱)のときは、南部信直方についた。 参考(出典):「鹿角市史」ほか
津軽大光寺氏系図(『岩手県史』より) 南部信時:南部二十代 ↓ 三男重茂:野沢所領野沢氏祖・或重義 四男光康:堤弾正左衛門・津軽郡代・始田子氏明応九卒・光康始三戸田子城主・後賜堤浦住居 ※光康 ↓ 経行:彦四郎・居津軽藩藤崎堤ケ浦・南部遠江守・居二階堂城・所領15000石と云・ 諸士三十九騎 ↓ 景行:称大光寺・二階堂城引退居住大光寺城・大光寺遠江守 康行:大光寺六郎 ※景行 ↓ 政基:大光寺左衛門佐 ↓ 政景:大光寺弾正 女:一戸右近妻 女:柴田太右エ門妻 ※政景 ↓ 正親:大光寺左衛門佐(後花輪城3800石)・始光親・室久慈中務少輔政則ノ女 正徳:2500石・大光寺儀太夫・兄無男子家督・寛永八卒・室円子定親ノ女 ※正親 ↓ 女:大里修理親基室=彦十郎 ※正徳 ↓ 正邦:2500石・或光政 女:葛巻覚内妻 |