参考(引用):
「日本のお城・世界のお城」「鹿角市史」ほか
△九戸城の落城 九戸城は室町時代末期の明応年間(1492〜1501)に南部氏の一族である九戸光政が築城し、 九戸氏は着実に勢力を拡大していった。第四代城主九戸政実(くのへまさざね)は勇猛な武将 として知られ、その勢いは南部氏宗家を凌ぐほどであった。 天正18年(1590)小田原城を攻略して北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は 「奥州・出羽まで鎮定する」と豪語し、「奥州仕置」に着手した。 南部氏宗家である三戸城主南部信直はいち早く小田原攻めに参陣して所領の安堵を得たが、 国元では南部信直の留守を狙って九戸政実が反乱の軍を起こし、反三戸の勢力を結集した。 南部信直は自分の手には負えないとみて、秀吉に援軍を願い出た。 天正19年(1591)9月、南部信直と秀吉軍は総勢6万余の大軍で九戸城を包囲した。 しかし、四方を谷川と崖で囲まれた九戸城は容易に落ちなかったため、 軍監浅野長政は一計を案じ、九戸氏の菩提寺である長光寺の住職に、 「開城すれば全員の命を助ける」と説得させた。 九戸政実はこれを信じて降伏したが、開城と同時に大軍がなだれ込み、 婦女子を含む約5千の籠城勢を皆殺しにした。九戸城は、豊臣政権への最後の反逆者として 血祭りにあげられたのである。 南部信直はこの軍功により蒲生氏郷が改修した九戸城を与えられ、 城の名を福岡城と改めて居城とした。しかし、この地が支配地の北に偏りすぎているため、 新たに盛岡城の築城工事に着手。寛永10年(1633)南部重直(信直の孫)が盛岡城に本拠を移すと、 九戸城は廃城となった。 △九戸鎮定後 九戸鎮定の後、その頭人として三迫(宮城県)で誅された大里修理・大湯四郎左衛門・ 円子右馬允の遺子一族に対する処分は、当時としては異例と云えるほど寛大な ものであった。 |