GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

高橋道人

 平成14年芸術文化の向上で鹿角市文化功労者。

参考(出典):「鹿角市広報」ほか
 
 毛馬内町役場職員として奉職の傍ら、句作に励み、「ぺんがら」に入会、 以後「馬酔木(あしび)」を経て「野火」に入会した。この間句集「羚羊(かもしか) の眼」「虫時雨」を刊行、昭和52年野火賞を受賞した。
 また「みづうみ俳句会」の指導者として活躍されている。

参考(出典):「木原の風」
 
△田原東太遺句集「木原の風」 あとがき
 田原東太さんの遺句集刊行については、歿後間もなくからみづうみ俳句会の会員の中から話が 持ち上がっていました。
 東太さんの力量から見て、健在のうちに句集をまとめて世に問うことは当然のことと考えていたからに 違いありません。私も何度かすすめたことがありましたし、奥さんのトヨさんも同様だったと聞いておりました。 しかしどうした理由からか、東太さんは句集をまとめることなくこの世を去ってしまいました。
 
 そこで、刊行時期はともあれ、とにかく遺句集刊行に向かって行動を起こすことになり、昨年来作品の選に 手を掛け始めました。選句は東太さんの句作の初期から行を共にして来た私にゆだねられました。 私も責任上当然のこととしてその任に当たることにしました。
 さいわい東太さんが書き残してあった自作の記録を奥さんからお借りすることが出来ました。 そこには肺結核で入院した大館市立病院の「だるま句会」で俳句に手を染めた昭和二十九年頃から、他界直前に至るまでの 「野火」掲載作品が丹念に記録されていました。残念ながら「みづうみ」「ほむら」の掲載作品は記録されていません でしたが、大分ぶ厚いノートでした。
 いざ取り掛かってみると、自選と異って大変な仕事でした。簡単に除いてしまうにはしのび難い句の多いこと、 それに何よりも多角、多面的にどうバランスを取って行けばいいのか、ずいぶん神経をつかう仕事でした。 選の速度が日に日に鈍り我ながら閉口してしまうほどでした。 でも、最終的に改めて目を通して見ながら、これでいいという自負心のようなものを持つことが出来ました。
 
 題名は刊行会のメンバーで検討しました。黒沢みえさん提案の「木原」が東太さんの性格に最もかなっているとして 取り上げられましたが、結局は”まんさくに木原の風が唄ひ出す”から取って「木原の風」と決まりました。 東さんもきっと喜んで下さると思います。
 
 この秋、鹿角盆地で稲刈りの時期を迎える頃、東太さんの三回忌がやって来ます。ご遺族のご都合で 法要は九月中に繰り上げて行なわれることになっております。 できれば法要までに、この句集の刊行が実現できればと念願しております。
 
 この遺句集の刊行に当たり、巻頭を追悼句で飾って下さった野火主宰の松本進先生、作品資料を快くご提供下さった ご遺族の田原トヨさん、企画から刊行に到るまで献身な仕事を貫いて下さった鎌田亮さん、 それに句集刊行の細部にわたりご助言いただいた大館孔版社その他関係各位の御協力に対し、心より厚く御礼申し上げます。
  平成十年七月七日
        高橋道人

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