GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

斎藤長八

 大湯。 平成19年鹿角市文化功労者。「不老倉鉱山誌」の著者。 「上津野」研究発表バックナンバーNO.2同NO.19同NO.22同NO.26 。 

参考(出典):「鹿角市広報」ほか
 
△平成19年鹿角市文化功労者
 斎藤長八 さいとうちょうはち 77歳 十和田大湯
 
 教育・芸術文化の向上
 昭和42年より有志と十和田短歌会を結成し、芸術文化の発展に尽力された。さらには、 大湯郷土研究会会長として郷土史の研究に心血を注ぎ、著書を出版した。
 幅広い見識により、鹿角市芸術文化協会副会長、理事を歴任し、「芸文かづの」に 多くの論評を寄せるなど、芸術文化の振興に貢献されたほか、鹿角市先人顕彰館館長、 鹿角市出土文化財管理センター館長、鹿角市史編さん委員をつとめ、教育文化の向上 に寄与されている。

参考(出典):「不老倉鉱山誌」
 
△不老倉鉱山誌 はじめに
 鹿角の里は南部牛追唄や、鹿角小唄などにあるように「西も東も黄金花咲く」と歌われてきた。 こうした鹿角の中でも、最も山深く、里人から東山と呼ばれて「東山を汚すと罰が当たる」 と言われていた四角岳。中岳の山麓に不老倉鉱山跡がある。
 銅が掘られたという記録は延宝五年(1677)とあるので、今から三百二十数年前から既に銅が採掘されていたが、 昭和四十五年不老倉地区から鉱石を採掘する鉱山が無くなるまで、その間二百九十余年にわたって、 幾度も盛衰をくり返しながら銅が掘られてきたことになる。
 こうした不老倉鉱山を中心とする地域は、廃山によって今は全くの廃墟となり、在りし日を偲ばせるものが 殆ど姿を消そうとしている。
 
 この鉱山誌では、在りし日の不老倉鉱山の姿を、現在に残っている記録、聞き書き、写真などによって、 可能な限り書き留めておくために企画されたものであり、事実を元に物語りとして、在りし日を偲んでみたいと思う。 正に夕日が沈んで、時を経て残り香の少ない時、はたして在りし日の不老倉の姿をどこまで掘り起こし、 光を当てる事が出来るか、不安な気もするが、不老倉鉱山の残照とも称すべき、この鉱山誌を綴ってみたい。

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