「金の長芋・白根金山発見伝説」。慶長三年(1598)国境検分の際、石野村白根の金山を発見す − 鹿角のあゆみ。 参考(出典):「鹿角市広報」ほか
鹿角の金山は慶長3年(1598)、鹿角境奉行だった北十左衛門(後の盛岡藩初代金山奉行) によってまず白根金山(後の小真木金山)が、続いて五十枚、西道、槇山など尾去沢の 諸金山が開発された。 盛岡藩初期の豊かな財政作りに貢献した北十左衛門は、同19年(1614)藩内から姿を消し、 大阪冬の陣において、豊臣方の武将として活躍した。彼は南部十左衛門信景と名乗り、 南部の光武者(きらびやかに着飾った武将)として注目を浴びた。 ゜ 実は、大坂の陣勃発に際して、南部家では徳川、豊臣双方に二股掛けをしたとされ、 重臣の北十左衛門を密かに大坂方へ走らせたのだと云う。 豊臣家が滅亡すると、逃げていた北十左衛門は捕らえられて南部家へ預けられた。 徳川方の盛岡藩二代藩主利直は将軍秀忠から詰問され、 北は盛岡の新山川原において、足や手の指を 一本ずつ切り落として殺すと云う酷刑(台切引とも)に処された。 今、北十左衛門の墓と云われる石塔が、仙北町に見られる。 豊臣軍の部将 通称:十左衛門 北信愛の妹の次男。信愛は南部家の一族で主家を支えた重臣。 信景は、1590年に信愛の後継ぎが死亡したため、その養子となった。 1600年の関ヶ原の戦いのとき、伊達政宗の策略により、 領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こり、花巻城が攻撃された際、 出陣中だった信景は兵五十を率いて戻り、ほかに戻った部隊と共に一揆勢を撃退させた。この功で南部利直(南部氏27代当主。陸奥盛岡藩の初代藩主)に賞され、 諱を賜り直吉と改めた。 鹿角郡白根山に金脈を発見したことにより、1602年に奉行に任ぜられ、 その後更に金脈を発見し、南部家に莫大な利益をもたらした。 1612年、信景の十歳過ぎの息子・十蔵が、利直に罪人を斬るように命じられたが、 返り討ちにあい死亡した。これに怒った信景は剃髪し、 部屋に籠って役職を放棄したため、利直から謹慎を命じられた。 そこで信景は、南部家の大量の金を持ち逃げして大坂城に走った (一説には、罪を得て逃亡した南部左門を追いかけて、そのまま大坂城に入ったと云う)。 大坂の陣が起こると、信景は豊臣軍の一員として三の丸北方の守備に当った。 陣の最中、大坂城から放たれた矢の中に「南部十左衛門信景」の銘があるものが 見つかり、利直は徳川秀忠から詰問され窮地に陥ったが、 「信景が出奔して勝手に南部姓を名乗っているだけで、南部家には謀反の心はない」 と弁明し、一時的な謹慎で事なきを得た。 陣後、信景は大坂城を脱出して伊勢に逃げたが捕えられ、 盛岡に送られて新山川原で処刑された。処刑は残虐なもので、 手足の指一本ずつ切り落とされ、最後には利直自らが弓でとどめを刺し、 首は鷹に晒されたと云う。これにより、南部家の重臣北家は断絶した。
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