犬養内閣の司法大臣。 参考(出典):「鹿角のあゆみ」
△略伝 川村竹治は花輪町の出身で、明治四年七月十七日に生れた。父俊治が教職に従事し、 谷内、平元、高屋の各小学校に勤めた関係で、幼少のころは宮川にいたが、小学校は 生まれ故郷の花輪小学校に通った。 小学校を成績抜群で卒業したが、進学する学資にこと欠く状態であったため、高屋 小学校(下川原小学校の前身)の代用教員となった。そのかたわらに扇田の柯山、石垣廉 について漢学を、独学で英語を学んだ。 氏の向学心を満たすため、一家は東京に移住し、氏は東京英語学校に入学し、高等学校 を経て、帝国大学法科に学んだ。 この間私塾を開いたり、夜間中学校の講師などをしたが、なお足らず、花輪出身の先輩、 石田八弥、大里文五郎(花輪で云う学士さん)などの学資援助を受け、卒業後 高等文官試験に一番の成績でパスした。 明治三十年内務省を振り出しに、翌年は逓信省に入り、三十九年には同藩の原敬 (岩手県出身)が内務大臣となった際に内務省に戻った。第二次桂内閣になると 台湾総督府に左遷され、内務と警務の両局長を兼務することとなった(明四十一年)が、 総督と意見が合わず浪人した。 原敬が再び内相となるや、若山県知事に起用されたが、この辺の動きの中に内閣の更迭 の度に、中央各省の幹部級のみでなく地方官吏も、左遷や罷免された当時の政情や 藩閥意識の強さがうかがわれる。 その後、青森県知事、内務次官、満鉄総裁、台湾総督を歴任、昭和六年には犬養毅 政友会内閣に入り、七年の五・一五事件で総辞職するまで司法大臣を務めた。 氏は昭和三十年九月八十五才で没し、長年寺に葬られた。 なお、文子夫人の経営による川村女学院(大正十三年開設、現川村学園 − 東京 − 目白)の存在も忘れられないことである。 (県広報「あきた」深浦宗寿氏の文から取材した)
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