鹿角の近代人物伝
 
…… 犬養内閣の司法大臣 ……
△川村竹治   明治四年(1871)〜昭和三十年(1955)
 昭和初期、台湾総督や司法大臣として令名の高かったのが、川村竹治である。
 竹治は明治四年正月十七日、花輪南部家中の川村俊治の長男として花輪町横町に生ま れた。幼少の頃、体が弱かったので、父の俊治は乗馬で竹治を鍛えたという。俊治は新 設された高屋学校、その後谷内に移った。このころも虚弱であったため、悪童たちから 青びょうたんとはやされたという逸話も残している。
 
 花輪小学校を卒業して、一時高屋学校の授業手伝いとなり、その後長福寺にあった石 垣柯山カイザン塾に通い漢学を修めた。当時一流の漢詩人であった柯山の薫陶を受け、竹治 も生涯漢詩と書をよくしている。その後秋田師範を受験したが、虚弱のため進学できな かった。父俊治は子息の教育に専念するため、一家をあげて東京に 移住した。竹治は先輩の援助を得て、第一高等学校、東京帝国大学法学部へと進んだ。
 
 大学卒業後、逓信省に入り、同四十一年内務省警保局長、ついで台湾総督府内務局長 と累進し、和歌山、香川、青森県知事を歴任した。ついで大正十一年貴族院議員、南満 州鉄道総裁、昭和三年台湾総督に就任している。このように官僚のエリートコースを登 りつめながら、東京での苦学時代を思い、鹿角郡出身の有為な青年を自分の書生として 勉学させた。こうした竹治の援助により大成した人は少なくない。
 
 昭和七年三月、犬養毅内閣が組織されるや、望まれて司法大臣になった。しかし同年 五月十五日、犬養総理が凶弾に倒れるや職を辞し、再び官界に戻ることはなかった。
 
 その後、私学川村学園を創設し、続いて同二十三年川村高等学校、同幼稚園を設立、 私学教育の雄として教育にうちこんだ。最晩年には川村中学校長となり、自ら指導にあた ったという。亜州は、その号である。
 同三十年九月八日、八十四歳で没したが、生前の功績に対し勲二等を授与されている 。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]