鹿角の近代人物伝 |
鹿角の女流俳人として、その令名を謳われたのが、渡部森女モリジョである。 本名はトミ、鹿角郡長などを勤めた小田島由義の二女で、明治二十三年七月二十五日 花輪谷地田町に生まれた。文筆の才能のある父、才女の誉れの高い母ハツの血をひき、 幼少のころから豊かな感性に恵まれていた。 生家は井桁屋イゲタヤという造り酒屋で、なに不自由ない生活だったが、同三十八年両親 が不在の時に、花輪町の大火で家が全焼してしまった。加えて分家昌臧に経営さ せていた為替銀行も類焼し、人々からの預り金一万五千円の弁償のため、全財産を処分 したので、一転してその日暮らしにも苦労するようになった。このため、子弟の教育に すべてを託し、一家をあげて東京青山に移住し、炭屋で生計をたてた。 トミは、東京牛込富久町の成女高等女学院に学んだが、四十年七月に退学、帰郷して 石鳥谷の素封家渡部文蔵の孫繁雄と結婚した。大正五年、兄次郎(樹人)の勧めで俳句 の道に入った。 それから間もなく渡辺水巴スイハ主宰の雑誌「曲水」に投句した「月見えて明るき雪や樹 々の風」が注目を浴び、一躍女両俳人として俳壇にみとめられた。以後、句作にうちこ み、むしろ森女の名で知られるようになった。 また、トミは名村長といわれた夫繁雄の影響もあってか、婦人運動においても大きな 業績を残している。母親達が創立した婦人会に属し、同九年には農村婦人の教養と地位 向上のため、曙村婦女会(婦人会)を組織し、活発な活動を展開した。その活動は全郡 の注目の的となったという。 トミは才色兼備の令夫人として、人々の尊敬をあつめていたが、昭和五年五月六日、 風邪をこじらせて満三十九歳十カ月の若さで病没した。遺された多くの名句は、義弟全 次雄により「森女句集」として七年に刊行されている。恩徳寺に、花輪俳談会によって 句碑が建てられている。それには「秋草のみな花つけし淡さかな」の句が刻まれている 。 |