学徳を以て世々我が郡に名あり。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 毛馬内の師匠様 − 泉沢織太(おりた)は緑泉(りょくせん)と号し、安永六年和右エ門の長男として生まれた。 母は伊藤喜三右エ門の娘で、叔父に為憲があり、弟に履斎があり、子に修斎がある。 織太は幼にして学に志したが適当な師友がないので、大館の黒沢源吾について学ぶこと二カ年、 更に盛岡の長谷川竜喬について経学を、宮杜箕山について詩を学んだ。これがため学問が進んだので 塾を開いて子弟を教育した。壮年に及んで桜庭の家宰となり、進言するところが多かった。また詩文 が巧みであったがその原稿を留めることを喜ばなかったので、多くは散逸して今に残らないのが遺憾 である。 天保十一年十二月病を得て没した。時に年六十四歳で仁叟寺に葬った。後に門人相謀って碑を建てて その徳を慕った。
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