渡部家「史料館」
 
△渡部家建築概要「歴史」
 秋田県鹿角市八幡平字石鳥谷には、中世に石鳥谷(いしどりや)五郎の館があり、後に 南部氏(盛岡藩)の一門南部九郎正友が鹿角三百町の旗頭として三戸(青森県)より遣わされた と言われている。三ノ岳(616m、「三の台」とも)の東麓に南北400m、東西100mの腰郭の一つに 渡部家はある。石鳥谷城と言われる郭一帯に家之子、郎党と共にこの地に定住したのは、400年 以上も前のことではないかと思われる。当石鳥谷の渡部家は出自は不明ながら、古文書および 過去帳から360年位前から歴史をたどることができる。
 
 過去帳の最初には戸舘(とだて)喜兵衛の名が出てくる。喜兵衛は鹿角市史に名前は出てこないが、 相当な分限者であったようで、藩に多大な上納金を納めている。その息子喜左衛門も豪農で あったことが、多くの古文書から伺える。
 家系上の初代は、渡部助之丞である。助之丞の兄渡部文四郎は、享保2年(1717)五駄二人扶持の 御給人になり、助之丞は寛保2年(1742)、兄から三駄分知されたものと、新田開発30石とにより、 御給人に召し出されている。最初に見られる遺高証文は、宝暦6年(1756)56石を給されたものである。
 
 以来、御給人として花輪代官所の役人(下役、御銅山付御山奉行等)を勤めている。
 二代文蔵、三代周助、四代傳助、五代喜与太、六代文蔵、七代康民、八代繁雄、九代全次雄、 現在の所有者前嶋和歌子は全次雄の娘である。
 七代康民は、南部家(盛岡藩)家老南部吉兵衛済愛の五男で、六代文蔵の婿養子となっている。

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