幻の郷士・野尻左京
 
三、毛馬内九左ェ門と古絵図
 南部廿二代政康は、しばしば鹿角を侵す秋田城之介に備え、第五子靱負佐秀範を毛馬 内に封じてこれを守らせた。四代範氏は四才で家督を継いだが、時あたかも秋田御境争 論中であったので、勇将の聞えの高い三左ェ門直次と交代となり、大湯へ転ぜられた。 毛馬内城を預かった三左ェ門の長子九左ェ門は、明暦三年八月五日、花輪へ転封され 花輪館主となった。
 
 第廿一代藩主重直は、世子を定めないまま他界したので、南部藩は藩主の座をめぐっ て紛争が続いた。三左ェ門は毛馬内統を結び、重直の弟で第五子重信擁立に力をつくし た。公儀は南部藩を本藩八万石、八戸二万石に分割し、第七子直房を八戸藩主とした。 三左ェ門の努力により、世子を定めず死亡した罪によって、城地を召し上げられる最悪 の事態を回避することが出来た。
 
 このことから、毛馬内の統は藩内で勢力を得、九左ェ門は延宝二年三月、中野伊織と 交代に、花輪から御城下へ赴き家老職に登用された。毛馬内家は数流に分かれ、何代か 九左ェ門を名乗った者があるので、この古絵図は果して初代九左ェ門長次のものである か断定し難いが、この古絵図面が三ケ田堰開さくと関係があるもののようで、九左ェ門 花輪館在任中のものと考えてよいと思う。

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