幻の郷士・野尻左京
 
四、三ケ田堰と曙地区の開拓
 八幡平大久保から三ケ田、野尻へかけての段丘は、昔はうっ蒼たる杉林であった。大 日堂故実伝記に、次のような記録が残っている。
 
  大日堂御修覆御再興の事
「前段省略、其後乱世故、現地村の葺き替斗りにて破壊し、利直公寛永八年修理御加 え、五の宮権現古作の獅子頭損じて、同十八年新作被仰付祭礼相用いる。大守重直公 、慶安弐年御修理、大守重信公御代、寛文五年極月晦日の夜、御堂天井より出火、堂宇 尊像不残炎上、此年私大にて同六年元日夜なり。同十八日祭礼被仰付、焼跡にて相勤め たる由、年を経ずして御再興有るべしとて二月九日杣入被仰付、如元九間四面に御再興 有り、梁の銘矣に記し置くなり。
 大檀越南部廿九代大守源朝臣大膳大夫重信于時寛文六年丙午極月二日
        別当 顕寿院 安部義栄
        奉行 大槻八郎兵衛正勝
           奈良又右ェ門兼政
        大工 若松儀兵衛藤原宗政
供養導師盛岡郷広福寺天台沙門権大僧都 大阿闍利法印覚翁」
と大日堂炎上と復興のことを記録している。
 
 説明するまでもないが、寛文五年十二月の晦日(南部の私大で六年元日)、御堂天井 より出火し、堂宇と大日如来像残らず炎上してしまった。藩主重信は、この月の十八日 焼跡で祭礼を取り行わせ、年内に再建することを命じた。村人は同年の二月九日、杉山 、大久保の杉林へ杣入りし、材木を伐り出し、同年十二月二日元通り九間四面の堂を建 立した。この時ばかりでなく、大日堂の修復再建には、大部分の材木をこの地方から伐 り出している。坦々たる平地であるにもかかわらず、曙地区の開田が後れたのは、夜明 島川が深い谷底を流れ、当時の技術では用水を引くことが出来なかったからである。数 年前からこの地区で大規模な農業改善事業が行われているが、方々で杉の巨木の伐根が 出ている。これは当時このあたりが杉林であったことを物語るものであろう。山林と畑 地しかなかったこの地区が急速に開田されたのは、夏井村岩崎から延々四粁に及ぶ三ケ 田堰の開削があってからのことである。
 
 曙地区に夜明けをもたらしたこの用水を開削したのは、一体誰なのであろうか。製作 年月も書いていない六枚の古絵図から、この大工事の施行を、毛馬内九左ェ門と多くの 持地の記入されている野尻左京であると推論することは、極めて大胆無謀であるかも知 れないが、いろいろな条件を考え合わせるに、この二人を置いて、大用水路を施行出来 る者はないように思われる。

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