幻の郷士・野尻左京
 
二、四天王と三郷士
 源頼朝が奥州の王者藤原氏を、義経をかくまった罪をならして、これを平泉に攻めた 。四代泰衡は、父秀衡のような人徳もなく、大将軍の器でもなかったので、頼朝の大軍 に抗する術もなく、三大の栄華を誇った衣川の館は落城してしまった。泰衡は逃れて奥 州路を北上し、比内(秋田県北秋田郡)の家臣河田の次郎を頼った。河田の次郎は旧主 を贄の柵に迎えたが、後難を恐れてこれを 殺し、藤原氏は滅亡した。
 
 頼朝は天下統一の大業をなしとげると、鎌倉に幕府をひらき、麾下の御家人を地頭に 任じて地方の政治に当らせた。この戦に功のあった武蔵七党の内、丹統に属する成田・奈 良・安保と、上総の国秋元郷の郷士秋元等四人の御家人は、南部光行の糠部、浅利義成が 比内を賜ったと同様に、鹿角の地頭となってこの地方へ下った。この四人の御家人を 鹿角の四天王といって、一族がそれぞれ四十二館中三十八館を支配したといわれている 。鹿角四天王は、五の宮皇子に従って都から下向したのではなくて、誇り高い武蔵七党に 属する鎌倉御家人であったのである。
 
 この事は、秋田県史にも明記されて居り、数年前安村二郎氏の現地調査によって明ら かにされたものである。四天王のこの誇りが、南部家の下風に立つことを潔よしとせず、 しばしば離反を繰りかえし、所謂鹿角の戦乱時代となり、長牛城をめぐる絢らんたる攻 防戦となった。この争いは、天下の大軍を動かした九戸争動まで続き、四天王の末流大 里修理(安保)・大湯四郎左ェ門(奈良)等の九戸方加担となり、これ等の諸将が刑死す るまで解決しなかった。
 
 三郷氏の起源については、はっきりした伝承も文書も残っていない。野尻左京の後裔 といわれる比内町大谷の阿部治兵衛家文書も、預けていた菩提寺の火災で焼失し、全く 手がかりを失ってしまった。三郷士は、恐らく四天王下着以前から、この地方の開拓に 当った土豪であったと思われる。野尻左京が実在した如く、他の二郷士草木丹後、牛馬 長根越後も、草木や七滝の土地を切りひらき、土民を支配していたに違いないが、今はそ の伝承さえも失われている。

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