GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

尾去沢鉱山ダムの欠潰事件

△産銅鉱山の恐慌
 第一次大戦後の産銅会はその存廃の危機に直面し、産銅大手は共同で価格の維持、 滞貨防止にあたることを申合せ、乗り切りに努力し、昭和二年頃一時市況が好転し、 低コストの銅も生産されるようになったが、又々昭和四年の世界的恐慌に痛手を受け、 産銅界は多くのストックをかかえ、ついにダンピングという事態を招いたりした。 その後満州事変(昭和六年)以降やっと活気をとりもどしつつあった時、あたかも 産銅大手としての尾去沢鉱山(現秋田県鹿角市尾去沢)では、わが国にかってない 大惨事が起った。
 
△中沢ダムの欠潰
 昭和十一年十一月二十日午前四時二十五分頃、鉱山の鉱さいをためておく中沢ダムの 高さ五百尺の大堤防が前日来の雨で警戒されていたが、遂に大音響と共に欠潰した。 鉱さいは鉱毒を含有する粘性の重い泥水で、これがまたたく間に当時の沢に沿うていた 中沢、春木沢、笹小屋、瓜畑、新堀、新山、各部落のほとんどと、下モ平、西道口、蟹沢 の一部、住宅や商店など数百戸、近代建築を誇った協和館などの施設を一瞬の中に押し流し てしまった。夜明け前の闇の中で安眠中の数千人が戸外に遁れる暇もなく、冷たく 重い泥水の中にまきこまれてしまったのである。尾去沢鉱山の景気が回復し始めその発展の 喜びを、町制施行に祝ったばかりの約一カ月後であり(町長宮城佐次郎)、小学校(校長 伊多波毅)では楽しい年中行事の学芸会をその日に控え、子どもたちの夢もそこに馳せて いたであろう、朝であった。
 
△(秋田)魁新報の報道
○尾去沢鉱山の鉱さい溜池欠潰
  数百戸押流され 死傷算なし
○米代川から既に死体三百上る
  惨状言語に絶す(当時の魁新報号外)
 
 辛じて魔の手から身をもって逃れ、離ればなれの子や親や兄弟を呼びつつ何かにしがみついた 人も、知人の家に難を逃れた人々も折から冬を迎えるきびしい朝の寒空にふるえたが、花輪への 道が全く泥で埋まり、電話も不通、連絡は全く杜絶してしまった。流下した鉱さいは米代川に 注いで増水、同河川は延々二十里の間が泥水と化し、ここまで押し流された人々の救いを求める 声が数町離れた花輪町通りの夢を覚ましたが、まるで地獄からの声のように慄然たるものがあっ たという。
 間もなく気がつき立ち上った人々によって、この泥川に沿う必死の捜さく活動が始まり、続け られたが、発見死体は各所に並べられ識別をまつ有様は正に目を覆わせるものがあった。
 
△被害の実態
 翌二十二日午後七時現在花輪警察署の発表は、
(末尾の数値は)県警の最終発表
 1、罹災人口 一、六〇〇名 − 一、六三四名
 2、被災戸数 三一三戸 − 三一〇戸
 3、死体発見 二〇九 − 二八〇(死体確認)
 4、行方不明者 四五三 − 一二六
 5、生存判明者 八二五
 6、負傷 一一三
 漸く山を登り、道を切り、先ず現地に急行してこれが救助捜さくに当った郡内各町村の消防、 男女青年団の人たちに加えて、県内はもとより、岩手、青森、宮城からも救護団が送られてきたが、 約三十一万三千立方メートルの鉱さいと、これに混る泥土のために暫くは手のほどこしようも なかったようである。
 
東京日日新聞号外
東京日日新聞号外
瓜畑地区
瓜畑地区
町の中
町の中

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