△救援活動 しかし、そうした中でも救援活動がすすめられたが、日を追うてその被害の大きいことが 判明していった。被災者、被災戸数はいうまでもないが、其の他河川の被害、鉱毒撒布による耕作、 漁業の被害など惨憺たるものであった。これに対する経営者三菱鉱業所の謹慎は深く(鉱山長吹原) これ等に対する応急措置は能う限りの力がつくされたようである。(弔慰金百万円) 被害者への救援物資を運ぶ花輪町の人々(花輪警察署前にて) △小倉侍従御差遣 又読売、朝日等新聞各社の飛行機はこの惨状を空から撮して全国に伝え、各地から救援の志が おくられ、花輪駅前の鉱山索道で運ばれた。勿論秋田県会は直ちに慰問決議をなし、且つ現地に 赴いて救援活動に当ったが(秋田県知事児玉政介)、天皇陛下も御軫念あらせられ、特に侍従御差遣 の御沙汰を賜り、同月二十五日小倉侍従が現地到着されている。 やがて復興にとりかかっていた翌月十二月二十二日午前四時五十分、再度の大欠潰があって、 山田、銭高組、土木人夫十三名の尊き生命を奪い、三十二名の負傷者を出して努力の復興を 一時再び廃墟と化している。 △復興工事 やがて復旧、復興の工事がはじまった。 先ず城山の高台に罹災者家族を収容するバラックが建てられていった。交通路の復興も急がれた。 大掛りなダム新設工事もはじまった。鉱山当局は後片づけの見透しがつくと同時に、愈々本格的に 復興事務所をクラブの下に新設し、一方町当局との協議を重ねて復興基礎案が作られた。即ち、 再建尾去沢市街地は軽井沢方面の高台に決定、その住宅(社宅)もすべて現在のように高台各所 に展開されることになった。怨みの旧道はこれを整備して運動施設並に桜其の他を植えて一大公園 とすると禍を転じて福と為す大努力がなされて、旧態はうかがうべくもなく、又その惨状も跡を 残さず、今日の美しい尾去沢の市街地が生れていったのである。 △復興の影響 その影響は又、各方面に及んだことも考えられる。各罹災者の損害補償の外に、百万円の弔慰金 が分配されたので、莫大な金品、物資が尾去沢及花輪、郡内を流動したのであろう。その他鉱山及び 町の施設復興のため、多くの建設会社が労務者を連れて入り込み、風紀的な問題もあったが、 その消費的物資の基地として、花輪、その他郡内の霑いは少なからざるものがあったと思う。 昭和の入って好況的な情況は花輪線開通と、このダム復興の時ではないかと思う。 リンク:「宮城佐次郎」 |