鹿角盆地の東部山列大森断層崖下に広大な原野を展開している菩提野扇状地の
開拓は、古くから多くの郷土開発者の注目するところであった。しかし扇状地に
共通する水利の不便を何で補うかが最大の難関であり、地形からみて分水嶺を
越えた岩手県側を流れる瀬ノ沢川上流から引水する以外に方法はなかった。
畳々たる山体を穿っての用水路開鑿(かいさく)は、容易な事業でなく、幾多の先覚者が
私財をなげうってこの難工事に挑んだ。その苦闘の歴史を佐藤与一「柴平村誌」
中の「石川理紀之助適産調」は、次のように述べている。 △瀬ノ沢用水路の歴史 文政六年 兎沢繁(小平)、豊田喜助(小平)、左兵衛(毛馬内)、与助 (花輪)四名が開墾と穴堰開鑿工事計画を立て、藩庁に出願す。 文政七年 藩庁から許可さる。 文政八年 工事着手。当時の開鑿技術は幼稚で、一日の進行度は高さ六尺、 巾五尺で、堅岩二、三寸、軟岩八寸程。開穴約百三十八間に及んだが、資金 欠乏のため安政二年に中絶す。 文久三年 盛岡藩士桜庭陽之輔が工事再開、火薬を使用し八カ年に開穴およそ 百五十間。維新の変革にあって中止。 明治十四年 尾去沢鉱山稼業主槻本幸八郎より工事復興の申込みあったが、村民 の意見一致せず拒絶す。 明治廿二年 北海道札幌市早川長十郎の申込あり、村長児玉正次郎、村民と協議 し契約す。 早川氏に資本投資した者 毛馬内の柳沢清助、黒沢繁治。 早川氏資本欠乏のため、青森県三戸町松尾藤平に譲渡す。 明治廿四年千葉県印旛郡富里村、田村浅次郎が工事を継承。 △穴堰貫通 明治廿七年 開穴百六十余間にして漸く穴堰貫遂す。全長実に五百余間。 明治廿八年 瀬ノ沢川郡壁川間に千三百八十余間の用水路を築造して供水を行う。 明治廿九年 菩提野原野開墾に着手。 明治卅一年 開墾反別田地二十余町歩。畑地を変換したもの拾余町歩。 この記録に表れている先人のたくましい意欲と、脊梁山脈に隧道を穿って用水路を 造る、というアイデアは驚嘆に価いする。 △瀬の沢隧道完成 このアイデアを更に発展させたのは柴平村で、村長金沢憲司、助役千葉繁樹は、 県や国との補助交渉に苦労した。この工事の目標は米の増収七五〇石、及びりんご 畑の潅水による増反増収である。着工は昭和二十九年、工事の途中花輪町との合併 (昭和三十一年)となるや、事業は瀬の沢土地改良区に引継がれ、県と町の補助を 得て、遂に昭和三十七年、瀬の沢隧道が完成した。そしてこの水の利用から、県営 柴平発電所の開発が続くのであった。 △柴平発電所 瀬の沢隧道の完成見込みから秋田県では、この水を利用する発電所建設を、 総合開発の一環として県営発電所第六号として計画し、昭和三十八年着工した。 有効落差二百三十七メートル、平均三七〇KW、最大二八〇〇KWの発電量をもつ 発電所が昭和三十九年十二月完成操業した。先人の夢が最も新しい姿で実現し、また 東山山腹からの一条の導水管は、鹿角の里に新しい景観を増したのである。 |