GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

真田大古事件

△下斗米与八郎の探知
 これは、当時福岡に下斗米与八郎と云う人があり、この陰謀事件を知り、単身 毛馬内村に赴いて事件の内部を探知し、この報告に基づいて処置されたとされている。 下斗米与八郎は、別に命を受けて探訪したものではなく、私的に動いたようである。
 協議した小笠原定一外三名とともに受賞しているが、与八郎は次のようにこれを 返上した。
  上表
青森県下真田大古陰謀の事件に付小笠原定一と協議 賊徒豊口唯志の術計を探知 し逆徒の実況を得るより終に大古以下の叛状未発に捕獲するに至らしめたるに付殊勝 の儀を以て御褒詞及び御賞として金二十円下し賜はり候得共右は政府の命を奉じて の事にも無之候得ば本県に対し奉り功労御座なくに付御褒詞並に御賞金共に返上 奉候也
  明治十年十一月九日
     第二三大区三小区 福岡村
        下斗米与八郎
 岩手県令島惟精殿
(盛岡市史)
 
 なお、この「真田大古事件」は当時ある程度の噂があったが、その内容については 分らなかった。昭和初期に至って、下斗米与八郎の手記が見出されてから、あらためて その陰謀についての資料の集収が行なわれた、と云う経緯をもっている。
 西南の役をめぐる郷土の動きは、以上のように不平士族の憤りと反抗の流れ、 新政府のもとに国家の危急に応ぜんとする流れとがあったことが分る。
 しかし、この西南の役の終結と共に、全国不平分子の妄動もようやく止み、郷土の 人々は何とかして、新時代に順応する方向に努力しようという気運になってきたと 思われる。
 
陰謀の鹿角「眞田大古事件の記録」

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