△跡部達蔵の陰謀 西南の役に前後して、秋田県においても西郷隆盛に加担しようと云う陰謀があった。 明治十年四月十八日 秋田県士族 跡部達蔵外十九名 陽ニ名ヲ西南賊徒征討ノ軍ニ従ニ託シテ 陰ニ賊兵ニ応ゼンコトヲ謀ル 既ニシテ自首スルノ故ヲ以テ 七月二十日弘前裁判所 ニ於テ 本犯ハ禁獄一七〇日ノ刑ニ処セラレ 外十九名ハ放免セラレタリ (旧秋田県史)
このような事件は、わが鹿角郡にもあった。 △真田大古の陰謀 これが明治十年におこった「真田大古事件」で、政府顛覆の陰謀を企てたが、事前 に発覚して大事には至らなかった。主謀者は真田大古で、彼は旧南部藩領である青森県 三戸郡と秋田県鹿角郡の境にある来満の神社の別当であって、薩長政府に反感を抱いて いたといわれる。 彼は西南の役が起こるや、岩手、青森、秋田県下に潜行して同志を集め、八戸地方に 秘密結社を作り西郷隆盛に呼応するように立とうとした。 △真田大古の趣意書 蹶起趣意書 我邦ノ地球上ニ於ル猶北辰ノ衆星ニ於ル如シ 皇統一伝列聖相受 干茲三千年神州ト称シ 君子国ト呼不宜乎、今也西郷隆盛西陸ニ新政府ヲ開キ、大元帥ノ名ヲ潜シ妄ニ干戈ヲ動テ 王師ニ抗シ其大逆無道倶ニ不戴天ノ冠タル固ヨリ言ヲ待タス 然レトモ彼亦一箇ノ英物 狂病風ヲ憂ニ非ラサレハ何ニ由テ此怪事ヲ為シ顧フニ朝廷ノ有司天下ノ大計ヲ誤リ万世ノ 大憂ヲ拓クノ事有テ憤懣過激ノ余ニ出シナルヘシ、嘗テ聞ク 外国ノ交際ハ往々鼻息仰テ 彼ノ箱制ヲ受ケ 五港ノ互市ハ年ニ数千万損耗有テ一塵土ノ利益ナク 唐太ノ交換ハ険ヲ 開テ冠ヲ召ク者ニシテ貢祖ノ苛刻ハ己ノ肉ヲ喫テ其身ヲ斃スニ庶幾シ苟モ愛国ノ心有モノ 誰カ痛哭流涕長大息ヲ為ササラン 夫天崩ル時ハ天下ノ民皆死ス 是ヲ如何ソ一己ノ不平ト言ン是或ハ隆盛ノ興ル所以也リ 雖然天ニ二日ナク地ニニ王無ク日本政府ノ下豈新政府ヲ置クノ理アランヤ 人臣ハ敬愛 ヲ以テ君ニ仕ヘ諌争ヲ以テ忠ヲ致ス 豈亦干戈ヲ抱テ工ヲ要スルノ道アランヤ 王師ノ 征誠ニ不可止者アリ 然レトモ王者ノ軍ハ正ヲ以テ不正ヲ討スルモノナリ 今朝廷ノ政 治ヲ不正 有司ノ罪ヲ不問、唯ニ虚名ヲ挙テ彼ノ罪ヲ責トモ 彼益々過激ニ愈々憤懣ニ シテ万人一心有死テ無退耳 嗚呼是同帝ノ臣ナリ 伐テ是ヲ尽スモ又何快カ是有ン 此時ニ及ンテ袖手傍観スルハ誠ニ不忍モノアリ 諸車ヲ馳セテ行在所ニ至リ大臣ニ面シテ 天下ノ大計ヲ諭シ万世ノ大憂ヲ消シ有司ノ罪ヲ弾シテ大改革ノ命ヲ四海ニ下シ 一朝ニ 新政府ヲ破毀シテ西陸ノ干戈ヲ収メ更ニ英雄男子ト謀テ大ニ振作スル所有テ 今上帝ノ 徳威ヲ海外万国ニ輝サント 専有機会不可失 諸彦若愚ヲ助クル意アラハ書至リテ速ニ 来会セヨ 明治十年竜集 丁丑二月念九日 (花輪町工藤利悦提供文献)
この陰謀事件に加担した人々は少ないが、その人々の国許は八戸、花巻、湧谷、 二本松、白石、会津、三戸、毛馬内、鍋島、若山(和歌山か)、弘前、秋田、盛岡、 松前、尾張、鹿児島、越後等可なり広範囲を占めている。この事件は事前に発覚し、 真田大古をはじめ、盛岡では小田嶋綱、花輪功一郎、原数馬等明治十年五月縛につき、 青森に護送され、翌年三月弘前裁判所において処刑(懲役五年)された。その他の者も、 秋田、青森、岩手の三県で一斉に捕縛され、それぞれ懲役、禁固の刑に処せられた。 毛馬内の田口家所蔵の文書によれば、毛馬内の人で未決に収監された人数は十三名 である。 |