GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

鹿角におけるキリスト教

△目時金吾、ニコライ教を移入
 幕藩時代厳重なる禁制が行われたキリスト教は、明治六年切支丹邪宗門禁制の 高札が取り払われて以来、政府の欧化政策のもとに次第にその信者の数を増していった。
 鹿角へキリスト教が入ったのはわりに早く、七滝村の目時金五が北海道函館から ニコライ教を移入したのが始まりと云われ、それから大湯の千葉佐惣治、花輪の 小田島庄太郎らに受け継がれて、ようやく信仰を広めていった。千葉佐惣治の履歴書 に、「明治十一年ヨリハリスト正教ノ教理ヲ聴聞セリ」、「明治十三年五月ハリスト 正教ヲ信ジ川股篤礼司祭ヨリ領洗セリ」と記されているから、例えば十二所曲田 に信仰が入り、福音聖堂(ハリスト正教)の建立されたのが明治二十五年であるのに 較べてみても、その早さが知られる。
 
△ニコライ主教大湯に来る
 七滝にロシア人宣教師が来ていたのは何年の頃か明らかでないが、特に注目される のは、ニコライ主教の大湯来訪と、同じく大湯における仏基大論争である。
 東京のニコライ主教が、この北隅の寒村大湯を訪れたのは、明治二十四五年頃 (諏訪綱俊談)で、当時村人たちは「カラヒト(唐人)がくる」というので、説教所 のあった大円寺門前あたりへ、好奇の目で見物に集まったと云うが、主教を招いてまで 信仰を深めようと努めた信者の熱烈さがうかがい知れる。
 
△大湯における仏基大論争
 明治二十年代になると、仏教が廃仏毀釈の反動から失地回復をはかるため、国民に キリスト教邪教観をあおろうとした護法運動が盛んとなり、島地黙雷、井上円了、 大内青巒等の、国家主義へ傾斜したキリスト教批判運動が盛んとなった。こうした 時代背景のもとに、大湯にあってもキリスト教を信仰する当時の進歩革新派の若い人々 の層と、仏教を固守する保守的な人々の層との間の意見の相違が甚だしくなり、しばしば 新旧思想の論争が行われたが、理論闘争に劣勢を感じた仏教派は、中央の錚々たる論客 である大内青巒(尊皇奉仏大同団)、加藤咄堂、石山天涯等を招いて、はしなくも、ここに 仏基大論争が起こった。
 大円寺で行われた仏教大演説会は、キリスト教信者から盛んな反論や弥次が出されて、 騒然とした状況となり、興奮した仏教徒がキリスト教会に乱入するなどの騒動が起こった。 明治三十一二年の頃と云われ(諏訪綱俊談)、全国でもあまり例のない出来事であった。
 
△大湯の信者数は秋田県一
 明治末期における秋田県内基督教会一覧によると、鹿角郡大湯村所在日本ハリスト正教会 の信者数一六六名で、信者数第二位の秋田基督教会五九名をはるかにひきはなし、全県総数 十二教会のうち、最大の信者を擁する盛況であった。また同四十二年九月、県が多数信者を をもつ前記二教会に対し、信者中聖饗を受ける資格者の報告を求めたところ、秋田基督教会 から八二名、日本ハリスト正教会(大湯)からは一四三名と云う回答が寄せられた。
 
 ちなみに同一覧にみる秋田市以北の教会は、
○日本ハリスト教会 鹿角郡大湯村 信者数 一六六名
○ハリスト正教会 北秋田郡十二所町曲田 同 四二名
○日本聖公会大館講義所 〃 大館町東大館 〃 一六名
の三カ所で、山本能代地区にはみえていない。
 
 ハリスト教徒の当時の有様について、花輪小学校六十年誌明治七年四月二十日の項に 「ハリスト教信者に対し、嘲りののしりを試み、暴行を加ふるようの心得違い無之様 注意すべき旨、郡役所より通牒せらる」とあることから、当時の信者はやはり異端視 される風潮があったようである。
 
 大正八九年頃小坂を中心に新教が広まり、毛馬内カトリック教会が建てられたのは 大正十一年以来で、同地区の教化に著しい貢献をしている。

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