明治三年江刺県のとき、政府の「小学校建設令(明治二年)」に応じて、
遠野にあった郷学「信成堂」を再興して「寸陰館」と命名したが、その分館
として「花輪寸陰館」とされて、一般にも公開された。この時の校舎は、仲小路
佐藤新之助宅(「佐新さん」当時六六〇〇余平方米もあった邸宅:
佐藤要之助参照)を開放した。 寸陰館舎長 泉沢修斎(毛馬内泉沢塾の「お師匠様」である) 舎長補 川村左学(盛岡に出て藩の儒医江幡梧楼に学び、帰郷後私塾を開いていた) 訓導補 大里寿(大里周蔵父) 毛馬内の泉沢塾は川村左学、大里寿など花輪外全郡の士をも集めた学問の中心で あったが、この花輪寸陰館がおかれ、泉沢修斎が舎長となるに及んで、ここが中心校 となったようである。いずれ町の寺子屋教育を了えた者は、更にこの寸陰館において 高度の漢学を教授された。 明治三年正月、県では館内に布告し、県内の素読師、手習師、医師など、すべて寸陰館 に申請して資格認証の許可をとり、許可証のない限り開業は禁止するとされるに至った。 同十月十三日泉沢修斎が死去されたが、同年小田島由義が「江刺県立鹿角寸陰館長」と なり、小田島が二代目とされる。 次いで明治四年十一月秋田県に編入、是において翌五年七月大里寿は「学校主簿」に、 川村左学が「学校主簿扱(秋田県雇)に命じられ、同年五月秋田に「本部学校」が 開かれ、六月七月にわたりその分校が県内十数カ所に設置され、「花輪(鹿角)寸陰館」 がその分校として秋田県立となったという。 同五年八月三日「学制」発布によりこの分校も一応中止となり、寸陰館も終りとなった。 |