△鍵屋村井茂兵衛 尾去沢鉱山は、明治五年南部藩の外債処理にからんで政府に没収され、いわゆる尾去沢 銅山疑獄事件として世に喧伝された。 その概略を述べると、南部領盛岡藩は、明治元年以来尾去沢銅山の稼行一切を盛岡の豪商 鍵屋村井茂兵衛に請負わせていた。白石に転封された藩主は、まもなく盛岡藩知事として 旧領に復帰したが、その条件として太政官より金七十万両を献納すべき旨を命ぜられた。 財政窮乏に悩んだ藩は、大阪蔵屋敷出張の勘定奉行川井清蔵の画策により、その資金として 村井茂兵衛の名義で、兵庫に居留していた英国商人オールトから金三十万両を借入れた。 その後その返済が容易ならぬまま、廃藩後債務は大蔵省に引継がれ、茂兵衛は財産店舗を 押えられ、公売処分を受け、同人所有の尾去沢鉱山は、五年三月遂に官に没収された。 △尾去沢鉱山官没は井上馨の陰謀か 当時の大蔵省の長官(大蔵大輔)井上馨は、翌四月大阪の商人岡田平蔵に銅山を払下げた ことから、この官没事件は井上馨の陰謀であるとして、当時の新聞を賑わしたのである。 盛岡藩の復帰金七十万両については、藩会計官林友幸が岩倉右大臣や大隈参議の間を 奔走し、藩主既に版籍を奉還した以上、巨額の金額を支出する途のないことを訴えて、 献金命令の取消を歎願した結果、明治二年五月に至って、政府から残金は献ずるに及ばず、 との沙汰を得て落着していたのである。 △官没事件の判決 明治九年一月九日の読売新聞に、尾去沢銅山没収事件に関する東京上等裁判所の判決 がのっている。 紙幣大属 川村選 其方儀、大蔵省十等出仕にて判理局勤務中、旧藩之外国負債取調の際、村井茂兵衛より 旧盛岡藩に係る貸上金の中、償却したる二万五千円を同藩より貸付けと見做し徴収せし科 (中略)、罰俸三ケ月申付候事。但し村井茂兵衛稼尾去沢銅山買上代償、同人承認の 証取置かざるは違式の軽に問い懲役十日。 内務権大亟 北村正臣 其方儀、大蔵省六等出仕にて判理局担当中、旧藩之外国負債取調の際、村井茂兵衛 より取立べき金円多収するの文案に連署せし科(中略)、罰俸一ケ月申付候事。(後略) 大阪府士族 川井清蔵 其方儀、旧盛岡藩大属奉職中、取扱たる同藩負債の儀に付、大蔵省に於て取調の砌り、 同藩より村井茂兵衛の旧債を抵償したる金二万五千円を以て、同人へ貸付金と見做して 具申せし科(中略)、懲役一年の処(後略) 茨城県士族 大久保親彦 其方儀、大蔵省奉職中、村井茂兵衛稼尾去沢銅山附属品買上代価、同人承認の証相添 わざる決議の文案に連署せし科(中略)、一等を減じ無罪。 等々である。川村、北村等の担当した判理局というのは、政府が廃藩置県後各藩の外債 を処理する必要から、外国債務について一切の疑義を解決するため、司法省と大蔵省との 間に打合せがあって、検査と裁判とを兼ね行なう役所として、大蔵省の中に特設されて いたのである。 なお、岡田平蔵はその後、盛岡の人瀬川安五郎と共謀して、県内鉱山の経営を独占 しようと画策したり、鉱山付属の薪炭山という名目で広大な官有林を私有しようと策謀 するなど、政商として多くの事件を起こしている。 |