GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

尾去沢事件@「槻本幸八郎と尾去沢小学校」

△槻本君行状  内藤調一撰
 鉱山の地方文化に及ぼした影響は大きいものだが、同史にある内藤調一(湖南の父)の撰した 「槻本君行状」から、これを窺ってみた。即ち槻本幸八郎は、岡田平蔵の下にあって鉱山経営 の実際を担当した「目代」である(後鉱業会社になって、尾去沢支社長となる)。
 
 槻本君(略)仙台ノ人ナリ。(略)従来鉱業ノ風タルヤ坑民礦石ヲ納レバ其、額ニ従ッテ 米塩味噌ヲ始トシ其ノ他必要現品ヲ給シ上下共ニ品物交換ノ習慣ニシテ彼ノ所謂太古ノ 蛮俗ノ有様ナリシニ、君之ヲ改メ金円ヲ以テ之ヲ買フノ姿トナシ、又大ニ役員ノ俸額ヲ増給シ百弊 悉ク挙リ千業緒ニ就キ 鉱業日ヲ追テ大ニ進ム。又独リ坑業ノミナラズ衣服飲食ヨリ凡百ノ 器具ニ至ルマデ漸ヲ以テ之ヲ上国ニ取リ、又諸職工ヲ東京ヨリ延イテ諸建物を興ス等野ヲ 化シテ文トナス。其風施イテ傍近諸村ニ及フニ至レリ。(略)初メ鉱山ノ地籍及民籍共ニ 花輪扱所ノ所轄ニ属セシニ鉱業事々障碍ヲ来タスヲ感ズ、六年冬君官ニ請フテ別ニ山中ニ 一ノ扱所ヲ置ク、今ニ至テ猶役場アル之ニ由来スルモノ也。七年ニ至リ小学校ヲ創立シ 坑民ノ子弟ヲ教育セシム。初メ鹿角全郡ノ人民未タ新聞紙ヲ購読スルモノナカリキ、 君来山スルヤ続々之ヲ購ヒ僚属ヲシテ回覧セシム。全郡之ニ傚ヘリ、郡中新聞ヲ購読 スルハ君ヲ嚆矢トス(後略)。
 
 明治十七年官庁報告の従業員数は役員八五名、職工一八名、坑夫五二〇名(上等一〇〇名、 中等二〇〇名、下等二二〇名)、製鉱夫一一三名(上等四〇名、中等三五名、下等三八名)、 坑外運搬夫一五一名、総数八八七名(平均賃金坑夫ニ八銭、製鉱夫、運搬ともにニ五銭)。 であったが、その年頃から経営困難(銅価の下落)となり、賃金切下げ、米の遅配などが あって、坑夫が事務所に押寄せたり、又尾去沢鉱山小学校が休校したりしている。遂に 二十年には三菱会社吉岡鉱山長長谷川芳之助の代理森村忠作と契約し、十月二十四日細地、 大葛両鉱山とともに尾去沢鉱山は三菱の手に帰するに至った。

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