GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

尾去沢事件@

△尾去沢事件(導入)
 明治史としての尾去沢鉱山の話題は、尾去沢事件からであろうが、この際麓三郎の 「尾去沢、白根鉱山史」等により、開発以来の概略を記しておきたい。くわしくは同史 をおすすめする。
 
 尾去沢鉱山は、白根鉱山(小真木)と共に古く、その開発については、本書の別項でも 触れているが、他の古い鉱山の開発や稼行と同じように、いくつかの伝説伝承からはじまる。 奈良東大寺の大仏建立、或いは藤原氏平泉の栄華と結びつけた伝承、特に「祐清私記」 「長坂見立始り」「尾去沢鎮守大森親山獅子大権現御伝記」などの伝承説が最も広く流布 されているが、史料をもってこれを裏付けることは困難である。「祐清私記」の「鹿角 金山のはじまりの事」に出てくる南部第二六世信直の家臣北十左衛門にまつわる「いもに 付着した土の中の砂金」の老婆の話では、その起源は、大仏の塗金にまでさかのぼり、それ から後安部氏の滅亡(一〇六二康平五年)まで砂金の採取が行われ、安倍氏以後中絶して 慶長初期までの約五百年間は空白であり、その近年になって隣国羽州の旅人が薬にするといって この辺の土を取っていったということになっている。

△尾去沢の金山のはじまり
 この話に出てくる北十左衛門は実在する南部藩士である(大坂落城の時に死)から、鹿角の 金山(砂金である)の歴史は、一五九八年(慶長三)白根金山開発、それと前後した五十枚、 西道(註尾去沢)、槇山(註八幡平村長牛)等の諸金山開発からはじめられている。 今から三百七十年前である。そして一六〇二年(慶長七)頃「白根千軒」「槇山千軒」 等の繁昌をし、南部藩金山として幾盛衰を経て明治に至るのである。
 
△明治の尾去沢
 幕末、藩の直営であった尾去沢鉱山は、一八六八年(慶応四)尾去沢銅の一手売捌方を、 ついで十一月(明治元年)にその稼行一切を盛岡の豪商鍵屋村井茂兵衛に請負わせた。
 明治政府は殖産興業の重要施策として工場鉱山の官営を行ない、佐渡、生野、院内、 阿仁、本郡の小坂(明治二年)も官行鉱山として洋式技術に基いて経営されたのに、何故か 尾去沢は調査はあったが官行鉱山にはならなかった(別子、足尾などとともに民行鉱山)。 この間の景況は、明治二年の産銅六四万斤以上(註銅価一〇〇斤につき三〇両として十九 万二千両代)であったが、銅価は月月下落し、米価、経費暴騰して経営難であった。この時 に当って後述する尾去沢事件が起っている。
 
 斯くして明治五年三月二十五日付で大蔵省没収と決定し、同年四月二十日付で大阪商人 岡田平蔵に払下げられた。岡田は、当時やはり東北の鉱山に手をのばしていた小野組名代 古河市兵兵衞から資金的援助を得て尾去沢の経営に当ったものらしい。
 平蔵は田中三郎平の子で、岡田平作に養われてその姓を冒したのだが、明治七年一月死没 したので、平作の子平馬が継いで経営した。同九年二月には平馬の子平太が継いでいる。 平蔵には平太郎という子があったが幼弱だったので、後に至って尾去沢鉱区の帰属をめぐる 紛争が起っている(註・明治七年尾去沢小学校創設に当って鉱業主岡田平太郎等の寄付が 同校沿革史にあるが、岡田平馬であるまいかと疑問とするところである。)。
 
 明治五年から二〇年まで、即ち三菱の経営に至るまでの間は岡田及びその鉱業会社 (九年九月から岡田平太、阿部潜、槻本幸八郎、大蔵勝三郎の組合となり、翌十年鉱業 会社とした)の経営で、この間の景況は産銅は低下して五十万斤程度(原価も明治六年 は一〇〇斤当り十五円)となっている。
 又、花輪町史にある明治五、六年の外国技術者招聘は、当時鉱山役方にあった木村平右衛門 日記に見えるが、外国人が鉱業に関与し斬新な洋風方式を採用した形蹟はない。文久三年に アメリカ製発破の試験を行なう。産銅順調とあるが、明治七年火薬による爆開法を伝えた。 坑夫が恐れて普及せず、常用したのは明治九年、としている。
 
 明治十二年に至って初めて洋風の開鑿器械 − 恐らく鑿岩機であろう − を据付けたが、 これは英国製ダイナマイトと共に用いられ、わが国最初のものであろうと思われる。

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