GLN 鹿角のあゆみ「拾読紀行」

鹿角郡の鉱山開発と大島高任

△大島高任
 鹿角の鉱山における技術改革の状況を、明治初期の世が国鉱業界の先覚者大島高任と の関係から追ってみよう。
 毎年十二月一日はわが国の「鉄の記念日」に制定されている。この日は今を去る安政 四年、盛岡藩士大島高任が陸中国閉伊郡大橋鉄山に、わが国最初の洋式高炉を築いて、 はじめて銑鉄の大量生産に成功した日である。藩政時代南部領であった鹿角の鉱山は、 近代化の過程でこの大島高任の指導によるところが深かった。慶応二年、大島は勘定奉行加役 として鹿角郡に出張し、尾去沢鉱山と小坂鉱山を視察した。
 まず尾去沢については、反射炉を建設して洋式銅山法により、旧来の捨てカラミ(゚)から 二〇〇万斤の精銅をとる計画を立てたが、これは残念ながら実現に至らなかった。
 
△小坂鉱山のはじまり
 小坂鉱山は他の鉱山にくらべて比較的新しく、一八六一年(文久三年)、小坂村農民 小林与作が銀鉱として発見、文久三年三月、小林与作、小笠原甚左ヱ門その他の者で銀山試掘 を盛岡藩に出願し許され、七座の吹床を築き、灰吹法による銀製錬が行われていた。
 
△小坂精錬所建設に着手
 大島は調査の結果この鉱山の有望なことを確かめ、藩営に移すことを決めて、翌慶応三年自ら 銀山御用掛となり、わが国初の洋式熔鉱炉二座と精銀炉その他分析室をもつ精錬所の建設に 着手した。しかし、残念ながら完成をみぬうちに、戊辰戦争が起り、大島は盛岡藩大砲御用 の役目で軍務についたので、この計画は中絶してしまった。
 明治二年、小坂は新政府の手に移って官営鉱山となった。大島は鉱山権正兼大学助教に 就任し、わが国の鉱山政策を立案したが、再び小坂の開発事業を担当することになって、 三年にはあたらしい熔鉱炉が完成し、次いでイギリス式分銀炉も設置された。
 明治四年大島は遣欧使節岩倉具視一行に加わり、ドイツの諸鉱山を視察した結果、新方式採用 を感じ、六年にドイツ人技師クルト・ネットを小坂製鉱技師長に招いて技術革新に当らせた。 こうしてマンスフェルト式熔鉱炉をはじめ、新しい鉱山施設がドイツから輸入された。
 
△小坂鉱山、南部家の経営となる
 明治十年、官営企業民間払下げの政府方針によって、小坂鉱山も南部家へ貸下げとなり、 ネットは東京大学理学部教授に任じられて小阪を去った。ここで南部家はまた大島高任に 委任して技術部門を担当させたが、この時期がちょうど西南の役後のインフレーションに 当り、賃金、諸物価が急騰して採算割れとなり、十三年再び小坂は政府に返上された。
 
△小坂鉱山再び官営
 第二次官営となるや、十二年に病気のため辞任していた大島が三たび小坂に帰任し、 オーガスチン法という新しい製錬法を採って、技術改善を行なった。この方式がその後 長く同鉱山における銀製錬法の基本となり、小坂鉱山は当時わが国の最高技術水準 をもつ鉱山としてその名が高かった。他の官営鉱山はほとんど赤字経営に終始したのに、 ひとり小坂だけが常に優秀な成績をあげたのは、まったく大島高任の指導のたまもの といわなければならない。
 
△小真木鉱山(白根金山)
 かって白根千軒といわれて繁栄をうたわれた白根金山は、一七九四年(寛政六)に不老倉 と共に休山したが、盛岡藩では一八三九年(天保十)領内金山とともに白根の直稼を企てたが 不振、その後しばらくその名は出ていない。一八七五年(明治九)になって、辻金五郎が 白根銅山跡に銅鉱借区を受け、発見された土鉱(銀鉱の一種)の採掘をしている。一八八四 年(明治十八)には新しく洋式機械による採鉱製錬設備をとり入れた。その名も小真木鉱山と 改めて大いに金銀鉱を採掘し隆盛となった。翌十九年には当時不振となった尾去沢鉱山を 買収する交渉もあったようである。翌二十年、経営者辻金五郎、杉本正徳等が、 「小真木鉱山会社」を設立している。この小真木隆盛の設計に当ったのが、ドイツから帰朝 した高任の子大島道太郎であったことは、一つの因縁というべく、鹿角の鉱山と大島家の関係の 深さを示すものである。
 しかし小真木は翌二十一年六月に、経営困難となり、経営者杉本正徳は三菱会社岩崎弥之助 にこれを譲り渡してしまった。以後小真木鉱山は三菱系にはいり、尾去沢とともに今日まで 歩んできたのである。
 明治二十五年まで小真木鉱山小学校(これは私立であった)があったが、その閉校に当り当時 財政設備難に困っていた尾去沢小学校に備品一切を寄付した。

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