幕府のキリシタン弾圧政策の強行によって、多数の信徒が諸国の鉱山に潜行して、
役人の探索から逃れようとしたが、鉱山地域の鹿角にも次の二つの事件が起こった。 (「切支丹風土記 東日本編」より抜粋)
△慶安三年(1650)に七蔵、五兵衛なる者が、白根金山の山師久七の配下切支丹
長左衛門を訴人、長左衛門はそれを聞きつけ秋田領内に逃れたが、この地で捕らえられ、
南部藩に引渡となった。長左衛門は盛岡城下の町会所で吟味を受けた。この口述書は、
御徒目付三上多兵衛、田代治兵衛、望月長兵衛によって、幕府に届出なされた。
長左衛門は拷問を受けたと云う。三月十九日のことである。翌二十日には長左衛門の子
半三郎も小高の刑場で斬首された。訴人七蔵、五兵衛の二人も切支丹信徒であったが、
転宗しているので賞金二十両を与えられたが、全金山の共同監視の条件がついていた。
切支丹長左衛門は江戸に引き立てられたが、転びで慶安五年赦免となり、その六月
盛岡城下に戻ってきたと云う。△南部領内鹿角郡と秋田藩内大館との境界争いは、慶長十四五年頃より起こっていた。 島原の乱が落着すると、切支丹信徒は、この境界争いの山の中に籠もったと云う風説が 流れた。 これが江戸幕府に報告されると、南部、秋田の両藩に詮索を命じた。そこで両藩では、 その命にしたがって詮索を開始したのである。寛永十五年(1638)十二月十三日の ことである。この日の払暁人数四百人ばかりの者が、秋田領籠谷村から南部領大地村に 向けて越えてきた。「各切支丹人数にて脇道へ掛り欠落致候やと、当領内(南部) 所々に差置候張番之者共見付候てとがめ候は、山中迄切支丹御せんさく強く、明日は 秋田領南部領双方奉行各出合御せんさく有之所、夜にまぎれ大勢参候は何者にて候哉 不審にて候間、急度名のり候へと申候得共、百姓共申分にてなのり申敷と種々悪口 申に付て不審に存じ、大地村百姓共と同所給人毛馬内権之助と申者召仕三人折節居合候 同心五十人棒を持向かい、御法度つよき折柄に候間是非名乗候へと申候得共、やりの さやをはずして刀を抜き、北方の者共押払申候に付、狼藉成儀、扨は切支丹にて 可有之候間、五人も三人も搦捕候へとて棒にて打立候へとも大勢の者やり、刀をすて 逃惑申候間、そもそも北方狼藉にては無御座候、互に申合候日限を違へ、夜中に参候 故之仕合に御座候」と南部藩の記録にあるが、秋田藩の記録には、「此時切支丹教徒 南部境上の深山に籠り居るの聞え有り、大館より中田又右衛門、安土三左衛門、杉山 弥右衛門等足軽二十人を率いて籠谷村に赴く。南部の検使も亦来りて同領大地村に有り、 十四日を期として双方より教徒を狩立つべきを約し置きたりしが、前夜に至り南部の 衛士三百人押掛来る。中田等やりを横(袈裟掛阪に追い返せり)と。その手出しは自藩 に有利にしるされているが、この結果、翌十七年大地村の給人毛馬内権之助は領地没収、 南部藩士島田(栃内か)玄藩、和田五郎左衛門、相馬喜兵衛等は切腹、百姓五人斬罪、 しかしこれに対し、南部藩は不服を訴え、よって翌十八年幕府は更に秋田藩士 中田又右衛門、安土三左衛門、杉山弥右衛門に対し、「やりを以てって激撃せし」 によって、三人に切腹を命じ、ここに事件の落着をみるに至ったのである。 △禁制の高札 定 き里志たん宗門は累年御制禁たり自然不審成もの在之は申出べし 御褒美として ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同断 同宿並宗門の訴人 銀百枚 右之通可被之たとひ同宿宗門の内たりというとも訴人に出る品により 銀五百枚可被下之かくし置他所よりあらはるるにおいては其所の名主 並五人組迄一類共に可被処厳科者也仍下知如件 天和二年五月 日 奉行 右被仰出之事領内之輩堅可相守者也 尚、右の高札は鹿角郡では、花輪、神田、大里、西道山、槇山、尾去、三ケ田、 谷内、湯瀬、田山、とふがい、すばり合、毛馬内、大湯、松山、小枝指、小坂、 濁川、小平、柴内、白根沢に建てられたことが記録されている。 当時キリスト教禁止の方法として、寺院と民衆との関係を壇家制度化し、宗旨人別改 を寺院の役目とした。 次は切支丹でないことを証明する寺証文の一例である。 宗旨証人之事 鹿角郡毛馬内御山見 川沼惣五郎 一、曹洞宗 男一人 右代々当時為旦那事実証明白也若御法度之吉利支丹宗門之由訴人於有之者拙寺へ 急変可申被候仍而後証如件 享保九年辰十一月二日 南部鹿角郡毛馬内村 仁叟寺 印 (「毛馬内郷土史稿」による)
|