「鹿角」 |
△七 伝説の鹿角 <十和田神話八郎太郎> 山秀づると雖も、水を得ざれば真命備はらず、水清しと雖も、山を得ざれば光彩を 添えることが出来ない。 十和田湖の勝景、神秘幽邃、実に天下に冠たるべしと雖も、又此趣味多き神話あって、 興更に深きものがあるべきである。 鹿角郡草木の邑に住む久内なるものゝ子に、八郎太郎と呼ぶ男があった、身長七尺に 余り、怪力常に人を驚かしむる程であって、常に人跡到らざる深山に入っては、樺の 皮を剥ぎ、狄鳥獣を捕へては町に粥ぐを業として居った。 或日、仲間三人と来満峠小國山に越えて、奥瀬の十和田に至り、級マダ剥ぎ小屋に泊って、 飯炊き番をした時であった。 水を汲むべく桶を手にして、谷の流れに下り立ちし時、水の浅瀬に大きなイワナ三尾 游いで居ったので、是を捕へて山小屋に帰り、今晩は三人夕餉の料に一尾づゝ分けて食べ やうものと、串を削って之にさし、用意の味噌をつけて、かば焼としたのであった けれども、余りの香ばしさにこらへ切れずに、己が分を先づ食べたるに、美味なること 限りなく、残り二人に馳走せんものと考へたことを打ち忘れたのごとく、二尾とも皆平げて しまったのである、其時遽かに喉の渇くを覚えてあったので、小屋の水を飲んだけれども、 飲み足らず、遂に谷水に降りて飲み続けたる所、不図我れと吾が顔の水に映った其姿を 見れば、あな恐ろしや身は忽ちにして龍身に変り、谷を傾けて飲めども其渇、依然として 止まない、止むを得ず山を割き岩を開き、水を堰き止めて一大湖をつくって、其中に棲む ことに覚悟を決めた。 所謂十和田湖は、斯くの如くして出来たものだと云ふ。 是から後、清和天皇の貞観十三年五月、綾小路関白藤原是眞卿は、其子是行卿夫妻と三人、 讒者の毒舌触れ、流浪して三戸郡斗賀村権現堂の別当藤原式部方に寄宿して居ったが、 熊野神社に祈願して一子を挙げ、之をば熊之進と名付けた。 熊之進は永福寺月体和尚の門に入り、南祖の坊と名を改めて、諸国を遍歴す中にも、 紀州熊野の権現へ参詣すること三十三回、万代死する事を免れしめ給へとの大願を掛けた のである。 一夜熊野権現の神霊、夢となって彼に告げて曰く、「此山の麓に一足の草鞋有可し、 そをはきて諸国を巡り、草鞋の切れたる所こそ、汝が永久の住家なるべし、ゆめ疑ふこと 勿れ」と、 山を降れば果して草鞋あり、しかも金にて造られてあった、南祖坊、之を履いて諸国を 巡錫し、十和田湖畔に到って、遂に緒が切れてあったから、此の地を永久の住家にせんものと、 身を龍神に代へて飛込めば、八郎太郎、大いに愕き且つ憤ほり、鎬を削って戦ふうちに、 南祖の坊、是迄読んだ経文の文字、悉く口となって咬みつかんとすれば、八郎太郎、 曾つて人の世に在りし時身に着けた蓑の編目の一つひとつが口となって是に対す、互に秘術を 尽して攻防に力め、争ふこと七日七夜、八郎太郎、遂に敗れて逃げ去ったのである、 八郎太郎、敗走の途次毛馬内に寄り、普門山を脊負ひ出して(所謂毛馬内富士)、米代川を 堰き止めて、鹿角全土を湖たらしめて、我棲む潟を作らんとせしも、鹿角四十三所の鎮守の 稲荷、大湯關神が近所の宮に集り大評定の末、各方面より石を投げつける等、一大修羅の 巷を現出し、遂に郡外に追ひ出されたのであった為に、鹿角は兎も角も事無きを得たので あって、今、毛馬ないの町端れに石塊の散在するのは、此時に各神々が投げつけられた ものだと伝へて居る。 八郎太郎、やがて男鹿村に走り、其処に八郎潟を造って永住し、田沢湖の辰子姫と相思 の仲となり、遂に彼は戦ひに敗れても、恋ひの勝利者となったのである。 八郎太郎伝説 |