「鹿角」
 
△六 鹿角温泉巡り
<湯瀬温泉>
 大湯と相対する郡南の温泉と云へば、第一に宮川村の湯瀬を挙げなければならない、 花輪町より南方二里、巌手県に通ずる県道に沿ひ、近来は人力車、馬車の外に自動車 も運転し、頗る便利である、小豆澤部落の一の渡橋より、道は米代川に沿ひ、絶壁の上を 通じて、江山の奇を恣にして居る、
 
 先づ取っ付きの碇発電所は青山を後ろに、清流を前に、 煉瓦造の美麗なる建物は、宛として瑞西辺の風光である、続いて岸壁自から仏像を現ずる 地蔵岩、両岸相迫り、奔湍澎湃として百尺の素絹を翻すが如き天狗橋、清泉岸壁を伝って さながら一幅の玉簾を掛くるの状ある銭波滝、更に笹の渡橋を越へて南すれば、松籟颯々 として四時和讃の声を絶たざる賽の神、樹枝恰かも傘蓋の状を呈する唐傘松、戦時七戸 避難せりと伝へられるゝ岩窟七かまど、岌々として聳ゆる巉岩の頂きに小松簇生したる 姫小松等送り迎へて隙あらざる中に、何時しか湯瀬温泉に達するのである、実に一の渡橋 より、茲に到る間約一里の渓間は、遠く九州の耶馬溪にも比す可く、中秋紅葉錦繍を綴る の時、或は三冬白雪峰々を埋むるの節は、光景殊に絶品である。
 
 湯瀬温泉は米代川に沿ひ、戸数十戸、多く農を業とし、湯槽は河原湯、下の湯、中の湯、 上の湯、高見等数ケ所があるが、何れも湯量豊富にして硫黄の外、種々有効の成分を含み、 皮膚病、胃病、婦人病等に効能あり、二六時中浴客を絶たない、旅宿は此地出身の札幌の 富豪關直右衛門氏の持主たる關旅舘、阿部藤助氏の所有に係る「上の湯」の外、下の湯、 高見等があって、待遇は素朴を免れないが、比較的低廉なるが此地の特色である、關旅舘の 背後には架せる鶴翠橋に立てば、米代川上流の奔湍岩に激して、万馬並び下るが如き大滝は、 指顧の間にあり、若し夫れ夕日夢の如く淡く、河鹿の声涼風に和して、亮々たるの時、 村嬢の唄ふ一節、
 
 湯瀬村こやえー湯瀬村こ!
 行けば木の中、萱の中、高い山から朝日さす
 前は白川湯もござる、上と下から伝馬こァ来る
 伝馬コかついで銭コ取る、永く住み度い湯瀬村コ!
 
の俗謡を聞かば、人は恍として自然の懐ろに帰るであらう。

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